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第23話

第23話

戻ってきた1本のウイスキー

3月のはじめ、フロリダから便りがあった。差出人はウォルター氏。名前に覚えは無かった。開封してみると手紙と一緒に1枚の写真が入っていた。内容は次の通りである。
「1947年、私はメディカルドクターの将校として仙台に駐在していました。ある日、北海道の余市に熊を撃ちに出かけたとき余市蒸溜所に立ち寄ったのですが、そこで竹鶴政孝氏と彼の奥様であるリタさんにお会いしたのです。そのときリタさんは体調を崩されていたようで、私は薬とビタミン剤を彼女に渡しました。すると政孝氏と奥様は大変喜ばれ、私にニッカウヰスキー(特級)のポケット瓶を2本くださいました。
あれから50年経った1997年、私はそのうちの1本を開け、妻と一緒に乾杯しました。同封した写真は戴いたウイスキーの瓶とパッケージを写したものです。政孝氏からの素晴らしい贈り物であるウイスキーの残りの1本を、ぜひ貴方にお渡ししたいと思うのですが、いかがでしょうか。よろしければ送らせていただきます・・・」

私はすぐに「ぜひ送って欲しい」という返事をした。そして57年前に、政孝親父が感謝のしるしにウォルター氏に渡したウイスキーが、私の手元に届いたのである。

ウイスキーは割れもせず、ほとんど当時の面影を残していた。キャップを開くとガラスの栓が施されている。随分と凝った造りで瓶の口の内側はコルクで、ガラスの栓であるが、長い年月でコルクが縮み、目減りしていた。原酒を30パーセント以上使った、当時としてはかなり贅沢なウイスキーは、まだ馥郁(ふくいく)とした香りを漂わせている。

あの当時はポケット瓶の人気が高かった。1950年にはスペシャルブレンドウイスキーのポケット瓶が発売された。モルト混和率は5パーセント未満。品質にこだわる政孝親父がぎりぎりまで製造を渋った3級ウイスキーだ。ブレンドに使う醸造用アルコールは専門のメーカーに発注していた。当時の醸造用アルコールの原料はほとんどが糖蜜で、その他はさつまいもが原料。さつまいもの収穫期である秋は生のものでアルコールをつくり、それ以外の時期はさつまいもを切って干した切干甘藷でつくっていた。ウイスキーのブレンドには穀物から採ったもののほうが味わいがよくなるので、後にカフェ式蒸溜機を導入して穀類を原料にするようになった。

ポケット瓶といえば、スコットランドのジョークで実に面白いものがあった。
田舎のあぜ道を老人が歩いてた。ふとしたはずみに足を滑らせた老人は側の溝に落っこちてしまう。やっとの思いで立ち上がり、老人は道に這い上がるとトボトボと歩き出すのだが、どうもズボンのお尻のあたりから何やら液体が流れ落ちてくる。すると老人は、こう言った。『おぉ我が神よ、どうぞ我が血でありますように!』

老人は年代ものの稀少品のウイスキーをズボンの尻のポケットに入れていたため、それが割れたのではないかと気が気ではなかったのである。だったら流れ出るのは我が血であって欲しい。いかにスコットランド人がウイスキーを愛したか、それがユーモアたっぷりに表現されているジョークで何度思い出しても笑みが浮かんでくる。

日本に戻ってきた1本のウイスキーは、これまでにどんな旅をし、どんな環境にいたのであろうか。激動の時代を乗り越え、よくぞ帰ってきてくれたものである。大切にとっておいてくださった上に、遠くフロリダから私の手元に送ってくださったウォルター氏に敬意と感謝を表したい。