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第29話

第29話

70周年を迎えたニッカウヰスキー

余市蒸溜所のキルン塔(第一乾燥塔)をはじめとする建造物9棟が、12月10日の文化審議会により、登録有形文化財として認定された。今年で70周年を迎えたニッカウヰスキーにとって大変記念になる出来事であった。

私が大日本果汁株式会社(昭和27年、ニッカウヰスキーに社名変更)に入社したのは昭和24年の4月。実は当時、大学を卒業してすぐ入社しようとは考えていなかった。教授から大学に残って欲しいと言われたこともあり、しばらくの間は大学院に通いながら余市蒸溜所で酒類の分析などを続けていた。しかし、やがてウイスキーづくりに専念するようになり、大学院から足が遠のいていったのである。

終戦の頃には、最初に仕込んだ原酒が10年目を迎え、戦争中に配給の大麦でつくったウイスキーも順調に熟成を重ねていた。「いよいよだ!」と思いきや、世の中には、原酒がほとんど入っていないイミテーションウイスキー、いわゆる3級ウイスキーが出回っていた。当時の酒税法では「3級ウイスキーは原酒混和率5~0%」。原酒が全く入っていなくても税金を払えば“ウイスキー”として発売できたのである。

私が初めてブレンドしたのは、3級ウイスキーの『スペシャルブレンドウイスキー』であった。「わしゃ、絶対につくらんぞ」と言い張っていた政孝親父だが、会社の逼迫した財政を考えるとやむをえない決断であった。しかし、3級ウイスキーとはいえ他社より品質の良いものをつくるために、規定いっぱいの5%まで原酒を入れ、合成着色料やエッセンスは一切使用しなかった。

試行錯誤の毎日であったが、政孝親父が歩んできた長く厳しい道のりに比べれば何と言うことはない。政孝親父が英国留学した時にしたためた日記にこんなことが書いてあった。

「・・・エルギンの町を出ると静かな海岸に出る。私は人気も無いこの海岸に時々行っては、遠くの海の彼方を眺めながら佇んだ。こんなに苦労して勉強して帰っても、結局、日本にはウイスキーづくりの良い環境はないのではないか、という焦燥と不安、それにできるだけ早くウイスキーづくりの技術を習得しなければならないという責任感が、ホームシックと重なり合って、私は声を出して思いきり泣いた。」

豪放磊落、我が道を行く男という印象が強い政孝親父。リタおふくろの葬儀のときにも決して涙を見せなかった政孝親父が声を上げて泣いたのだ。どれほどの苦悩があったか、慮ることしかできなかったが、ブレンドを続けながら、私もいつか本物のウイスキーをつくるのだと固く心に決めた。昭和25年の初夏であった。

昭和36年、リタおふくろが亡くなった。スコットランドで政孝親父と出会い、見知らぬ異国、日本までやってきて、戦争中の迫害にも耐えながら政孝親父の夢の実現を支え続けた彼女の半生は、決して穏かなものではなかった。誰よりも悲しんだのは政孝親父であったが、一心不乱に新しいウイスキーをつくることで、悲しさや寂しさを乗り越えることができたに違いない。

その頃、政孝親父と共につくり上げた『スーパーニッカ』(昭和37年発売)は、現在も私にとって特別なウイスキーである。また、3級ウイスキーづくりで感じていた焦燥感を一気に吹き飛ばしてくれた“恩人”のようなものでもある。当時は余市蒸溜所の原酒しかなかったが、その後、宮城峡蒸溜所、カフェグレーン設備の充実でブレンドする原酒が増えるにつれて、『スーパーニッカ』は、より芳醇な香りと深い味わいを纏っていった。さまざまな商品をつくってきたが、この『スーパーニッカ』は、ニッカウヰスキーの歴史を語る存在でもあるのだ。

余市蒸溜所で初めてウイスキーが誕生したのは昭和15年。第1号ウイスキーである『ニッカウヰスキー』が詰められた木箱が、馬車に載せられて石の門をくぐってから60年余り。そして今、余市蒸溜所の貯蔵庫には、50年もの眠りについている樽が幾つかある。容量が約500リットルの「Butt(バット)」と呼ばれる樽でゆるやかに熟成する原酒は、とても長生きをする。あくまでも想像だが、限定で50年物のウイスキーが誕生するのも夢ではないのではないか。

文明が進んで人類がめざましい発展を遂げても、ウイスキーづくりは何百年経っても変わることはない。熟成のための歳月と清冽な空気、ウイスキーに個性を与える自然環境は、神の領域。人工的につくることなどできないからである。

根気の要るウイスキーづくりだが、おかげさまで70年を迎えられたのは、ニッカを「うまい」と飲んでくださる方々がいらっしゃるからである。そう思うとき、ウイスキーはつくり手の想いを運んでくれる酒だということをしみじみと感じるのだ。