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琥珀色の肖像・余市 山田町の竹鶴邸

余市工場から余市川をへだてた山田町に政孝とリタが暮らした家がある。
時が止まったような静かな佇まいに
ウイスキーづくりに生涯を捧げた2人の面影が偲ばれる。
※竹鶴邸は、平成14年12月に蒸溜所内に移築、復元し、玄関ホールと庭園を一般公開しています。

2人が暮らす家、竹鶴邸を設計

北海道余市にニッカウヰスキーの前身である大日本果汁株式会社が誕生した1934 年、竹鶴政孝は単身赴任し技師たちと一緒に宿舎に寝泊りしていた。
「この臨戦体制もウイスキーづくりを支えるためのりんごジュース製造が軌道に乗るまでの辛抱だ。冬が明けたら住居を造り1日も早くリタを迎えてやりたい」。
政孝は事務所で、敷地内に建設するウイスキー製造のための設計図と一緒に、2人が暮らす家の設計図を広げていた。


翌年の9月、鎌倉に留まっていたリタが余市に移ってきた。
初めて訪れた北の果ての地だったが、リタの瞳は喜びに輝いていた。余市の気候や風景が、生まれ故郷であるスコットランドに似ていたのだ。2人の夢は困難に見舞われながらも、ここ余市で少しずつ、確実に育っていくことになるのだった。

安息を求め、余市川を隔てた山田町に移設

自宅でくつろぐ政孝とリタ

政孝の部屋から洋風の庭を眺めると、そこには石灯篭が。そしてふすまを開けると、男性用のトイレ。 和洋折衷、政孝らしい感性がこんなところにも出ている。

当初、二人の暮らす家は工場のリタハウス(当時は研究室)の斜め前、現在は芝生になっている場所に建てられた。
70坪ほどの家は政孝が設計技師に細かく指示を与えて建てた"こだわりの家"である。

しかし政孝は、いつの間にか 「機械の音が変だ」と真夜中に飛び起きては、様子を見に行くことが習慣になってしまっていた。
そのたびにリタも起き上がり、現場へ出かけていく政孝の後姿を見送る。

工場の敷地内に住んでいる限り、休まる時間はない。
「ウイスキーをつくっている限り、宿命のようなものだ。
だが、夜くらい解放されてもいいのではないか」そう考えた政孝とリタは余市川を隔てた山田町に建物を移設し、そこに移り住むことにした。

長い冬が明けた北海道の春、リタが丹精込めて育てた花々が一斉に咲き競う。
エゾムラサキツヅジ、クロッカス、ラッパ水仙。ただし、その可憐な花々の中に白い花はひとつもない。
その理由は「白は雪だけで充分だ」という政孝の言葉にあったという。


ウイスキーづくりに生涯を捧げた2人の面影

竹鶴政孝、リタの眠る墓は、遠く正面に蒸溜所を望む、小高い丘の上にある。

リタは60歳を過ぎてから入退院を繰り返すようになり、64歳の誕生日を迎えた、わずか1ヶ月後の1961年1月17日、政孝に看取られ永眠した。

亡くなった後、政孝は、まる2日間自分の部屋に閉じこもりきりで、余市町の小高い丘にある火葬場にも「おれは行かん」と言って骨を拾いには行かなかった。

1年後、工場と余市川を見下ろせる美園町の墓地に、いつでも一緒にいられるようにと、自分の名も刻ませた洋風の墓を建てた。そしてリタの死後18年が過ぎて、政孝もこの世を去った。死の直前に洗礼を受けた政孝のクリスチャンネームは「アブラハム」、享年85歳であった。

短い北海道の春、美園の丘には緑が茂り、おだやかな風が木々の間を通り抜けていく。
政孝とリタは今もなお、ウイスキーの理想郷として選んだ余市の町を、そして愛してやまないニッカウヰスキー余市工場を見守り続けている。


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