ウイスキーづくりに情熱を傾けた竹鶴政孝。
彼は琥珀色の夢を育みながら
若者たちの夢の実現にも貢献したのだった。



「笠谷やりました・・・・」というアナウンサーのはずんだ声を耳にしながら、色々な思いが私のなかを去来した。
竹鶴政孝は著書「ウイスキーと私」のなかにこう記している。
第11回冬季オリンピック札幌大会(1972年)、宮の森シャンツェで行われた70メートル級ジャンプで、ニッカウヰスキーの社員であった笠谷幸生選手が、見事金メダルの栄冠に輝いたのだった。彼を栄光へと導いたのは、彼自身のジャンプへの情熱とたゆまぬ努力、そして竹鶴政孝のスポーツにうちこむ若者たちに対する理解であった。
戦時中、政孝は余市中学の校長から、次のような話を持ちかけられる。
「スキーのジャンパーは優秀な飛行士になる。空に舞い上がる経験が飛行訓練に効果的だ。ついては余市に中学生用のジャンプ台をつくってもらえないだろうか」。
政孝は、その申し出を快く引き受け、さっそく余市高校の裏山にジャンプ台をつくらせた。
そして1941年、小樽市の元オリンピック、ジャンプ選手秋野武夫氏の設計により、余市中学校スキー部員の夏休みも返上しての奉仕作業により完成。11月29日、台開きが行われたのである。



このシャンツェは竹鶴シャンツェと呼ばれ、笠谷幸生氏らを輩出し、その後メダル獲得を記念して併設された「笠谷シャンツェ」(K30m級)からも、地元余市町出身の船木和喜選手や斎藤浩哉選手らが育ち、余市町はジャンプ競技の盛んな町として知られるようになった。
旧竹鶴・笠谷シャンツェは、現在地より200メートル北側にあった。2000年、ジャンプ台の下を流れるヌッチ川の改修により場所を移動、サマージャンプも可能なシャンツェが建設された。
竹鶴シャンツェから世界へとはばたいた若者たちの夢は受け継がれてゆく。
その姿に余市蒸溜所で生まれるウイスキーたちが、静かに重なるのだった。