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ニッカのこだわり 凛として 〜ウイスキーの父 竹鶴政孝〜

第6回 遊び心 「仕事を一歩離れたらいいおやじのような存在」敬愛込め語る社員

スポーツにも力、笠谷の「金」育てる

ニッカウヰスキーの社長、宇野正紘は日本有数の蝶のコレクターで知られる。さらに、料理は市場での仕入れから始めるプロ級の腕という、極めつけの趣味人だ。
この「遊び心」は、創業者の竹鶴政孝から引き継がれるニッカウヰスキーの社風でもある。
政孝は経営難だった創業時から会社の慰安会を大事にした。
初期の宴会は河原が会場で、釣った獲物をその場で鍋にして楽しむ。そして最後は“宝探しゲーム”だ。

「河原の石の裏に番号が書いてあって、その番号に合わせて商品が用意されている。みんな一生懸命に石をひっくり返してね。そして、当たった商品は必ず使ってみなきゃいけない。口紅が当たれば男でもつけてみる。パンツは履いてみせる。みんな大笑いですよ」
第一期社員の小山内祐三は、笑顔で語る。

野球部のユニフォーム姿の政孝。監督を務めることもあった。


余市蒸溜所(北海道余市町)に当時、世界的に有名だったテノール歌手の藤原義江らを呼んで公演も行った。妻のリタも、慰安会ではドーナツを百個以上、社員全員に二個ずつ作ってふるまった。
「当時は珍しくて、リタさんが作るお菓子が楽しみでもあった。竹鶴さんはみんなで遊ぶのが好きで、どうやったらみんなが楽しめるか、アイデアを出すのが本当に上手な人でした」

この慰安会は定例化していく。
昭和二十年に入社した工藤光家は二十四年から、この宴会の司会進行役に指名される。

「竹鶴さんの『始めるか』の声で宴会が、歌謡大会になるんですよ。島倉千代子さんが好きで『だれか千代ちゃんの歌を歌え』とか言う。だれにどんな歌を歌わせるか大変でした。妻の妹が島倉さんの歌を得意にしていて助かったなあ」

政孝の十八番は謡曲「猩々(しょうじょう)」の一曲だけ。最後は「雪の降る町を」か「アカシアの雨が止む時」を社員全員で合唱して政孝を送り出すのが恒例だった。この宴会は昭和五十年代まで続いた。
ただ、小山内は後に各地の工場長や役員を歴任したが、政孝のまねはしなかったという。

「こういう遊びは竹鶴さんとリタさんがやるから値打ちがあるんです。特別な二人でした」

政孝個人も遊びの達人だった。「よく働くものほど、よく遊ぶのだ」と、ほとんど家にいなかった。

マージャンや碁などの勝負事も好んだが、なんといってもお気に入りは、北海道の大自然を満喫することだった。
熊狩りには、ヘリコプターを使って追いかけるほどの熱を入れたし、スコットランドでも人気のあった釣りやスキーは、リタと一緒に楽しんだ。

しかし、唯一、スコットランド発祥のゴルフだけはリタが亡くなるまでやらなかった。リタがシングルプレーヤーだったから、負けたくなかったのかもしれない。
社員のレクリエーションでも、スポーツに特別に力を入れた。社員は必ず何かスポーツ部に参加しないといけない決まりだった。野球、テニス、卓球、剣道、相撲など次々とクラブができた。

2メートル以上の大物の熊を仕留め、記念撮影する政孝。この熊は玄関の敷物になった。


社内で特に盛んだったのが野球だ。各部署で対抗戦も行った。
研究室にいた柴田義朋(現仙台ニッカサービス社長)も懐かしむ。
「部によっては人が足りないから若手はよく駆り出されてね。笠谷君も助っ人で参加してましたよ」
「笠谷君」とは昭和四十七年、札幌オリンピックの70メートルジャンプで金メダルを獲得した笠谷幸生のことだ。

政孝は昭和十六年、地元の中学の校長から相談され、私費を投じて余市にジャンプ台を作っている。笠谷は「竹鶴シャンツェ」と呼ばれるこのジャンプ台で練習し育った。そして、ニッカウヰスキーに入社し金メダルに輝いたのだ。

政孝は自伝「ウイスキーと私」(日経新聞連載「私の履歴書」に加筆、ニッカウヰスキー発行)に「きびしい努力と精進で、日本スキー史始まって以来の快挙をやってのけてくれた。(中略)多くの名選手を生むのに竹鶴シャンツェが役立ったことに一人で満足した。いま私は、笠谷の優勝を記念して余市に小学生用のジャンプ台を建設し、笠谷シャンツェと名付けたいと思っている」と感慨深げに記している。

昭和47年、札幌オリンピックの70メートル級ジャンプでは金銀銅メダルを独占、日本中がわいた。金の笠谷幸生(中央)と銀の金野昭次(左)、銅の青地清二(右)


この笠谷シャンツェでは、長野オリンピックで活躍した船木和喜や斎藤浩哉がジャンプを覚えた。笠谷の金メダルはニッカウヰスキーの大きな宣伝にもなった。政孝は企業がスポーツのスポンサーとなる先駆けでもあった。
一方で仕事場での政孝は一切の妥協を許さなかった。ことに「商品の質に通じる」と衛生管理にはうるさかった。

後年、政孝の東京本社勤務が増えたころ、政孝が余市に戻ってくることがわかると、政孝のカミナリを恐れて、社員は前日から工場の掃除にはげんだ。
「最初にスコットランドで勉強した竹鶴さんには、日本人に本物を伝えなくては、という強い使命感があったと思います」と宇野はいう。

十二年入社の渡部政治が、兵役を終えて帰宅すると、留守の間、政孝が家族に毎月四十円を届けていたことを知った。
労働組合をつくるようにと提案したのも経営者の政孝だった。

「戦後、毎日のように物価が上がって苦しかったとき、『いくらあったら生活できるか組合で示せよ』とおっしゃった。できる限りのことはするからと」

英国仕立てのダブルの背広に鳥打帽。立派なカイゼルひげと、写真に残る政孝は、ワンマンなカリスマ創業者のイメージが強い。しかし、創業初期の社員はみな、政孝のことを敬愛を込めて懐かしそうに語る。

工藤は、今も政孝の話をすると涙が出る。
「仕事を一歩離れたら、尊敬するいいおやじのような存在でした。人生の何もかも教えてもらった」
=敬称略(田窪桜子)

余市蒸溜所のポットスチル(単式蒸溜器)の説明をする渡辺政治。蒸溜のプロとしてここで40年間
働いた。



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