竹鶴はただ一つの夢を追い求めた。
その一念の元に多くの苦労を乗り越え、ついに自分の夢を叶えたのである。
スコッチに匹敵するウイスキーを日本でつくりたい。
竹鶴は絶えず本場スコットランドのスコッチウイスキーを目標に、仕事に取り組んできた。
寿屋時代に山崎工場で国産第一号のウイスキー「白札サントリー」が生まれた時も、まずはその原酒のサンプルをスコットランドに持っていき、恩師イネス博士の意見を聞き、問題点を反省した。
「白札サントリー」は熟成が足りないという欠点もあったが、何よりウイスキーに馴染みの薄い日本人にはなかなか受け入れられなかった。
負けん気の強い竹鶴は、この後ますますスコッチに負けないウイスキーづくりへとのめりこんでいく。
やがて竹鶴の夢は理想のモルトを求めて北の大地、北海道余市に移った。
不惑の歳、40歳である。
ようやく理想の環境を得た竹鶴は、人生をかけウイスキーづくりに打ち込んでいく。
しかし経営はなかなかうまくいかず、借金はどんどん増えてしまう。竹鶴は金策に奔走しつつ、熱心に自分のウイスキーづくりに取り組んでいたが、そんな竹鶴の気づかないうちに国際情勢は緊迫していく。
ところが、第2次世界大戦が始まり、外国からの洋酒の輸入が禁止されたことは、ある意味でウイスキー事業には好都合となった。軍隊で将校たちが飲む酒を製造するために、原料である大麦などの配給も優先的に受けることができたからだ。
皮肉なことに、辛い生活を余儀なくされた戦争が、ウイスキー事業を軌道に乗せたのだった。
しかし状況は厳しさをどんどん増していく。
日本の敗戦が色濃くなるにつれて、余市の周辺にも米軍の爆撃機が飛来し、常に空襲の恐怖にさらされた。
竹鶴は醸造したウイスキーの原酒を辛抱強く貯蔵庫に寝かせていたが、その貯蔵庫が爆撃を受けてしまえばこれまでの努力も水泡に帰してしまう。
竹鶴は空襲の際にも防空壕に入らず、入口にじっと立って念じるような気持ちで貯蔵庫を見守り続けた。幸い貯蔵庫は爆撃の難を逃れ、終戦を迎える。
戦後も混乱の中で進駐軍の視察など気をもむ出来事があったが、竹鶴は持ち前の精神力で切りぬけ、周りの人々にも勇気を与え続けたのだった。
困難な時代を耐え抜くことができたのも、ひとえに「日本で本格的なスコッチウイスキーをつくるのだ」という思いの強さゆえであろう。


