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竹鶴政孝 History 竹鶴の精神

日本の本格ウイスキーづくりに人生を賭けた竹鶴政孝。
彼の生き方と、ウイスキーに込められた思いをご紹介します。

邁進する情熱

興味を持ったものにはとことん邁進する情熱 1916 〜 1918

竹鶴は広島の造り酒屋に生まれた。
竹鶴には2人の兄がいたが、どちらもそれぞれの道を歩んでいたので、家業を継ぐのは竹鶴のはずであった。家業を継ぐべく大阪高工で醸造を学んだが、日本酒ではなく洋酒に興味を持ち始め、卒業を待たず当時の日本の洋酒業界の雄“摂津酒造”へ押しかけ入社を果たす。

摂津酒造に入社後、竹鶴はウイスキーづくりの魅力にとりつかれ、寝食を忘れて働き続ける。その甲斐あって、入社後間もなく主任に抜擢される。

当時摂津酒造で手がけていた寿屋(現・サントリー)の「赤玉ポートワイン」を竹鶴が担当した年、各地で葡萄酒の瓶が破裂する事件が相次いだ。
不充分な殺菌のため、中で生き残っていた酵母が暑さで発酵してしまったことによる。

しかし、「赤玉ポートワイン」だけは破裂せず、その高品質が広く知られることとなった。寿屋の鳥井社長は後に竹鶴を自社に招き入れることになるが、この時に優秀な技師・竹鶴の名前を覚えたのかもしれない。

当時の洋酒は葡萄酒にしてもウイスキーにしても、中性アルコールに甘味料や香料、カラメル色素などを加えたイミテーションが主流であった。しかし竹鶴がこうしたものに満足できるはずもなかった。

彼の興味はより本物のウイスキーを求め始めた。

竹鶴家集合写真 1899年 (前列中央政孝5歳)

渡英前のポートレート 1918年6月


  • 邁進する情熱
  • パイオニア精神
  • 地道な努力
  • 本物にこだわる
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