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日本の本格ウイスキーづくりに人生を賭けた竹鶴政孝。
彼の生き方と、ウイスキーに込められた思いをご紹介します。
竹鶴は広島の造り酒屋に生まれた。
竹鶴には2人の兄がいたが、どちらもそれぞれの道を歩んでいたので、家業を継ぐのは竹鶴のはずであった。家業を継ぐべく大阪高工で醸造を学んだが、日本酒ではなく洋酒に興味を持ち始め、卒業を待たず当時の日本の洋酒業界の雄“摂津酒造”へ押しかけ入社を果たす。
摂津酒造に入社後、竹鶴はウイスキーづくりの魅力にとりつかれ、寝食を忘れて働き続ける。その甲斐あって、入社後間もなく主任に抜擢される。
当時摂津酒造で手がけていた寿屋(現・サントリー)の「赤玉ポートワイン」を竹鶴が担当した年、各地で葡萄酒の瓶が破裂する事件が相次いだ。
不充分な殺菌のため、中で生き残っていた酵母が暑さで発酵してしまったことによる。
しかし、「赤玉ポートワイン」だけは破裂せず、その高品質が広く知られることとなった。寿屋の鳥井社長は後に竹鶴を自社に招き入れることになるが、この時に優秀な技師・竹鶴の名前を覚えたのかもしれない。
当時の洋酒は葡萄酒にしてもウイスキーにしても、中性アルコールに甘味料や香料、カラメル色素などを加えたイミテーションが主流であった。しかし竹鶴がこうしたものに満足できるはずもなかった。
彼の興味はより本物のウイスキーを求め始めた。


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