「出発の時」ジークフリート&ザ・ブレンド
トラックが行ってしまうと、後には少し空虚な気持ちが残った。15年間の単身赴任生活がこれで全て終わった。
「今日は新幹線で帰ろう。最後の贅沢だからグリーン席を取っておいたよ。」
「それじゃあ岡山まで3時間以上もかかってしまうじゃないですか。
飛行機なら1時間なのに。」
妻は最近、膝の調子が悪いらしく長時間の移動は辛いらしい。けれどもグリーン席ならゆったりと過ごせるだろう。
15年暮らした東京もこれで見納めだ。丸の内のビル群を見ていると、そこに通った日々が思い出された。
新幹線はいつものようにゆっくりと東京駅を出発した。
「弁当はいるかい?」
冷房が強いのか、膝にハンカチを広げる妻に尋ねる。
「新幹線は冷房がききすぎね。」
「グリーン席には膝掛けがあるんだ、取ってくるよ。」
ドア付近の荷棚に置いてある毛布を一枚、妻に掛けてやる。
「窓側に座るかい?」
「ああ、いいのよ。トイレに行くかもしれないから。」
こんな風に妻と二人だけで列車に乗るのは何年ぶりのことだろうか。品川を出て加速していく車窓を、「東京」が流れていく。
東京に赴任したての頃に行った箱根の温泉。あの頃はまだ単身赴任ついでの旅行もしたものだった。東京、岡山間は長年通い慣れた通勤電車のようだ。いつも見る静岡の片田舎の風情ある茅葺きの家。一面に水をはった水田。いつも「ああここまで戻った。」「もう、ここまで来た。」と眺めた景色もこれで見納めだ。
これからは妻と二人で、車窓から見た場所に行くのも悪くないかもしれない。定年というのは、本当に第二の人生の出発なんだな、としみじみ思う。
社内販売のカートが来たのでウィスキーの水割りを2つ注文する。昼間からお酒なんて、という妻にプラスティックのカップを持たせ、買ったボトルは開けずに、部屋から持ってきたフレスコの酒をいれる。
「あら、それ何?」
「ああ、これは、部下たちから定年祝いにもらったんだよ。僕がウィスキー好きなのを知っていてね。最後の片づけの時に残っていた酒をいれておいたんだ。」
いつも、一人で飲んでいた懐かしい味。暇に任せて色んなウィスキーを試してみたなかで、一番のお気に入りだった酒、ザ・ブレンド。スクエアなボトルの形も気に入っていた。あの空き瓶を並べていて妻に怒られたこともあった。
男の一人暮らしも、最初は学生時代の下宿生活に戻ったようで楽しかった。料理も覚えた。洗濯もやる。この年齢にしては家事ができるのはいいことだと思う。濡れ落ち葉にならなくて済む。そう思ってこの何年かは我慢して家事もこなしてきた。
それでも、仕事が終わって家に帰っても「声」を出すことがない生活は、時折息苦しかった。
そんな時は学生時代に好きだったジャズを聴きながら、よくこの酒を飲んだものだ。モルト100%のウィスキーも個性があって好きだが、私はブレンデットの方が好きだ。ジャズも人もウィスキーも、違った個性が出会って生まれるものがある方が豊かさを感じる。
「あら、意外と飲みやすいのね。」
妻は酒など飲まない生活だったのだろう。今までゆっくり夫婦で晩酌することもなかった。
定年後、関係会社に移って働く道もあった。けれどもこれ以上離れて暮らすと帰れなくなるような気がした。定年前に支店長職で岡山に戻るタイミングもあったが、ちょうどその頃に娘の就職が東京に決まり、しばらく一緒に暮らすことを選んで断った。娘と二人だけの生活も、彼女が嫁いだ今ではいい思い出だ。
岡山での生活に不安がないわけではない。郊外にいる母のこともある。友人と呼べる人も殆どいない。何よりも岡山には妻が長年培ってきたそこでの生活があり、私はそこへ入っていく闖入者みたいなものだ。
「嫁に行くってこんな気分なのかな。」
「何言ってるんですか?自分の家に帰るのに、
嫁に行くだなんて・・・。おかしな人ね。」
「そうかな。」
これからは本当に二人だけなのだ。妻も私も長年の一人暮らしで、わがままにもなっているだろう。残された時間を二人で豊かに暮らせるよう努力しなくてはならない。離れていた時間を埋めるだけの時間が、私たちに残されているだろうか。
「あら、新幹線も飛行機みたいに音楽が聴けるのね。」
座席に置いてあるパンフレットを見ながら妻が言う。
「そうだ、イヤホンを持ってるよ。聞いてみるかい?」
「お酒とかイヤホンとか、なんでそんなもの持っているのかしら。
あなたそんなに昔から準備のいい人だったかしらね。」
質問というより、つぶやきのように妻は感心している。
「これも定年の祝いの品だよ。最近はほら、音楽を聴ける小さいものがあるんだ。」
アイポッドからイヤホンを抜いて、座席のジャックに差し込む。
妻はしばらく新幹線のサービスのクラシックを聴いてから、イヤホンを外し、
「この中にも音楽が入ってるの?」
とアイポッドを手にとった。
「ああ、もらったときに何曲か入れてくれていてね。ジャズが入っているよ。」
「あら、これジャケットの写真?」
「そうなんだ。このアルバムのデザインいいだろう。」
「ちょっと聞かせて。」
妻とイヤホンを片方づつ分け合って「ジークフリート」を聴く。何年か前のモントレージャズフェスティバルにも出ていたトランペッターの曲だ。スイス生まれのせいか、アメリカンジャズのような「濃さ」とは別の洗練された上品なトランペット。それほど若くはないと思うのに、新しい形のジャズだ。ラップとのコラボレーションも心地いい。
今まで、イヤホンの右と左を分け合って音楽を聴いている若いカップルを不思議だと思っていたが、彼らの気持ちが今日少し分かった。
「シーグフレイド?って曲なの?」
妻が画面に出ている文字を読む。
「ああ、これはジークフリードって読むんだよ。」
「あのニーベルングの指輪の?」
「あれは、ワーグナーが題材にして書いた曲だね。」
「原作はヨーロッパ版ヤマトタケルノミコトとかギリシャ神話みたいな話でしょ。」
まあ、そう言って言えないこともない。
妻はクラシック音楽など昔から聴いたのだろうか。
これからは音楽を共通の趣味にしてもいい。クラシックや、このエリック・トラファズのようなヨーロッパジャズを聴くための海外旅行もいいかもしれない。
今まではひとりでジャズを聴いて、ひとりでウィスキーを飲んできた。趣味とも呼べない趣味だったが、そうやって寂しさを紛らわせていたのかもしれない。
これからはこうして二人で音楽を聴きながら、ゆっくりと会話を増やしていこう。聞いてあげられなかったことを聞いたり、話せなかった出来事を話したり・・・。
私はシートにもたれて目を閉じた。ほのかに身体が暖かい。
あと2時間で我が家だ。
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