「Super-Man」 ウェイン・ショーター&鶴
白夜は不思議だ。「もうすぐ日が暮れ始めるのかな」という夕方の4時のような状態のまま、気が付くともう時計は11時になっている。
ヒトが極北で暮らしてこられたのは、苦しく厳しい冬の時期を過ごしても、他の地域では体験できない「濃い夏」があるせいかもしれないと思う。
北国の夏の訪れは、ゆるやかに感じる季節の変わり目というよりも、春と夏が手を取り合って突然やって来る感じがする。
僕らの世代にとって、ロシアは不思議な国だ。
子どもだった頃から青年期までの長い冷戦時代のソビエトは、ある日、なし崩し的にロシアになってしまったような印象を持つ。
モスクワは他の元共産国のように、すすけた印象の街だ。
なぜ、元共産国の街並みは他のヨーロッパ諸国よりも建物の灰色度合いが濃いのかと不思議に思う。
「色が少ないからかもしれないですね。」
スポーツカーを運転しながら、丸本さんが言う。
「ロシアって一言でいうとどんな国ですか?」
「まあ、いいところは何もない国ですね。人は働かないし、
貧富の差は激しいし・・・。」
車で走りながら外を見ていても、メルセデスか錆びたカローラかのどちらかしか走っていない。
海外出張の多い僕でも、元共産圏に行くときは少し緊張する。
通常は普通に済むことも、手こずる場合が多いからだ。
荷物が届かない。人が来ない。契約条件以外の条件を当然のように持ち出される。別料金の上乗せ。現金主義。賄賂。
或いは偶然かもしれないが、なにか共産主義を奉ずるに至った「核」のようなメンタリティーがあって、共産主義が崩壊したあとも、ずっとその「核」のようなものだけは残存しているのかもしれない。
そんな国にも必ず日本人は居て、それは実に様々な理由による。
女性の場合は、国際結婚によってその国に居住していることがほとんどだが、男の場合は本当に多種多様な理由でその国に住んでいる。
元バックパッカーでなんとなく居ついてしまった人。その国の女に惚れてやって来た人。日本に居たくなかった人。その国の文化に惚れ込んだ人。転勤をきっかけに住み着いた人。
丸本さんはなぜ、この国を選び、この国に住むようになったのだろうか。初対面でそんなことを聞いては失礼かもしれない。
「丸本さんは、お酒は飲まれますか?」
「ええ、まあそれほど多くはないですけれど。」
「実は、日本からおみやげにとウィスキーを買ってきたんですけど、
残ってしまって・・・持って帰るのも重いですし、もらって頂けますか。」
「いいんですか?」
「いいんです。いいんです。その方が僕も助かります。」
この仕事に就いて、先輩から教わった重要な事柄の一つに、海外に行く際のおみやげのチョイスがある。
別に賄賂というわけではない。そのおみやげを通じて、会話が弾み、コミュニケーションを潤滑にすることだけが目的だ。
最初の頃は、海外に住む日本の人には昆布の佃煮や羊羹。外国の人には扇子。と決めて、それだけを配っていた。
あれは、パリ出張の時のことだっただろうか、現地の支店長から、
「君の先輩がいつも持ってきてくれる酒がうまくてね。買ってきてもらえないか。 名前が日本語で書いてあるから読めないんだよ。」
と事前に連絡があった。
多分、日本酒か何かだろうと思いながら、その先輩に
「何をお持ちになったんですか?」
と聞くと、答えは意外にも日本酒ではなく、ウィスキーだという。
「ニッカに『鶴17年』っていうウィスキーがあるんだ。
白い陶磁器のようなボトルに入ってるやつ。
ちょっと値ははるけど、外国人には結構喜ばれるよ。」
「ウィスキーですか。」
「うん。まず、そのウィスキーはボトルが美しい。鶴をイメージしてあるのかな、
白くて曲線の美しい飾り壺みたいなボトルなんだよ。
外国の人はそれに『和』を感じるみたいだな。」
「お酒っていうから日本酒かと思ってました。
最近ライスワインとか言って人気があるって聞いたから。」
「ああ、昔は日本酒なんかも持っていったんだけどね。
俺たち日本人って、食事と一緒に日本酒を飲むだろう?
だけど、食事と一緒に飲むシーンを設定するのが難しいんだよ。
日本食レストランなんかに持ち込むと嫌がられるし、割増料金も取られるし。
飲み方を教えるのも面倒だし。」
「で、なんでウィスキーを?」
「海外のトップクラスになると、社長室とか役員室とかにバーコーナーがあるだろ?
そういう所へ行くときに、そのウィスキーを持って行くんだ。ウィスキーだから、 食事に左右されないし、ミーティングが終わってちょっと一杯飲むのにいいんだ。」
「なるほど。」
「それに、『これは日本で造られたウィスキーです。』っていうと、 かなり感心されるんだよ。やっぱり日本人はすごいって。」
「どうしてですか?」
「ウィスキーって、造る過程での管理が結構大変なんだろうな。 だからそういうことがちゃんとできる日本人は、さすがだってことになる。 それに、ボトルに筆で『鶴』って書いてあるんだ。最近、漢字が『クール』だって ことになってるようでさ。彼らもそれを話題にしてちょっと飲むのに便利みたいだな。」
「それって、先輩が考えたんですか?」
「いや、飛行機で一緒になった人に教えてもらったんだ。
その人が手荷物でそのウィスキーを持っててさ。」
「なかなか考えてますね。」
「そうだろう?何より会話を考える必要がないから楽なんだよ。」
そういうわけで、僕は海外のちょっとしたVIPに会わなければいけないときには、『鶴』を買って行くようになった。
今回は特にそんなVIPに会う予定もなかったのだが、ロシアに行くのだから何かの役に立つかもしれないと買ってきた。結局はそのようなVIPに会うこともなく、荷物になるので、現地でお世話になった丸本さんにもらってもらうことにしたのだ。
ロシアでの仕事が全て終わった夜。丸本さんが自宅に僕を招いてくれた。
高級住宅街にある、大きなマンションだった。
食事を頂き、丸本さんがプレゼントしたウィスキーを開けてくれた。
「丸本さんはどうしてロシアで仕事をしていこうと思ったんですか?」
ずっと聞いてみたかったことを聞いた。
アメリカや南の島やヨーロッパなら、まだなんとなく「住んでみたい」気持ちは分かる。チェコやスウェーデンのような国でも、なんとなく分かるような気がする。
確かに夏は白夜があって、冬は異常に寒くて、季節のメリハリが好きな人もいるのかもしれない。或いはトルストイに心酔しているとか・・・。
それにしても、ロシアに住むというのは、この何週間かを見ていてもあまり楽しそうには思えなかった。
「私は若い頃、音楽をやってたんですよ。」
「何を?」
「サックスです。それで、ジャズミュージシャンになりたくて、
まず最初にニューヨークに行ったんですよね。」
「それがまたなぜモスクワに?」
「ウェイン・ショーターというプレーヤーを知ってますか?」
「ええ、名前だけは。確かウェザー・リポートの人ですよね。 僕の姉がファンでしたから。」
「彼の演奏をニューヨークで見たんです。もう文句なしにすごかった。
ああ、才能は一人の人間だけに、これほど降り注ぐことがあるのか、
と愕然としました。」
「そんなにすごい人なんですか?」
「すごいです。スタンダードだけでなく、新たな音楽に対する挑戦も、
その作曲も。熱意も。それで、音楽をやめたんです。
私は絶対にショーターにはなれないから。」
「それで、アメリカの反対側のモスクワに来たんですか?」
「まあ、ある意味そうですね。当時ソビエトはアメリカの対極にあるものと
思っていましたから。」
「でも、音楽はやめられたんですよね。」
「ええ、私は日本やアメリカでは大した人間ではないですが、
ここではスーパーマンになれますから。」
「スーパーマン?」
「そう、スーパーマン。ショーターのような絶対的なスーパーマンには、
私はなれないけれど、環境を選べば私だってスーパーマンになれる。
日本人が普通にやっていれば、ここではスーパーマンになれるんです。
別にスーパーマンになることだけが目的じゃなかったですけれど、
一度だけでいいから、ショーターのようなスーパーマンの気分を
味わってみたかったんですよ。子どもですね。」
「スーパーマンですか・・・。」
「ええ、スーパーマン。スーパーマンの演奏、聞いてみますか?」
「ええ、是非。」
彼は、レコードをターンテーブルに乗せ、針を落とした。
アグレッシブで激しいサックスが、高い天井の部屋に鳴り響いた。
|