「黄金の海」 「ニュー・シネマ・パラダイス」&余市180ml
自転車通勤を始めたきっかけ。
ある日、イエローの折りたたみ自転車に一目惚れしたから。
何かほんの小さな変化の印が欲しかった。
会社に入って10年。
10年目の記念に何かを買うくらいしか思いつかなかった。
例えば身の回りの物。一生物の高級なボールペンとか、特別な革の名刺ケースとか。そんな風に思っていたのに、ある日通りかかったショーウィンドウに飾られていた自転車がどうしても欲しくなった。
記念品は何も高級である必要はない。何日か悩んで、結局その自転車を買った。
買った店から家まで自転車に跨ると、いつも見慣れた街が少し違って見えた。
それから週末ごとに自転車と一緒に色んな所へ出かけるようになった。最初は3kmくらいからスタートし、段々と長距離も走らせることができるようになった。
ある週末に気の向くまま自転車を走らせていて、ふと会社まで行ってみようという気になった。8kmほどの距離は思っていた程でもなかった。
翌週から少し早起きをして、自転車で通勤しはじめた。道を選べば、自動車の交通量もあまり気にならず通うことができた。
「お前、何だよ、その荷物。出張か?」
会社の席の脇に置いた、折りたたまれた自転車を見た同僚に聞かれた。
「自転車通勤してるんだ。」
「え?何?節約か?運動不足解消とかか? そんなもので通勤していたら、飲みに行けないだろ?」
「この間の健康診断の結果もよくなかったし、丁度いいかなと思ってさ。」
「ふうん。大変じゃないか?もうそろそろ寒いだろ?」
「いや、自転車漕いでるとそうでもないよ。汗をかくくらいだ。」
「坂とかきつくないか?」
「いや、これは変速が付いてるからそうでもないよ。 小さいけど意外と高性能なんだ。」
「ふうん。流行ってるのかな。何人かいるなあ、自転車で通勤してくる人。
通勤費も浮くし、一石二鳥だな。酒代減少。健康増進。
小遣い倍増。そんなに金を貯めて何に使うんだよ。」
別に金の事までは考えてなかったが、自転車通勤が続いたら、行ってみたいと思っている場所があった。
「しまなみ海道って知ってるか?」
「ああ、あのJRのポスターに出てる橋?広島から愛媛だっけ?」
「正確には尾道から今治までなんだけど、あの橋って自転車で渡れるんだ。
これで身体を鍛えて行ってみたいと思ってるんだ。」
「でも、相当な距離だろ?瀬戸内海を渡るってことだよな。」
「いや、瀬戸大橋みたいに一気に本州から四国に架けてある橋じゃないんだ。
小さな島を繋いで架かっている橋だから、ゆっくり渡れると思う。
そこへ行ってみたいんだ。」
「ガキみたいだな。チャリンコ暴走族か?バイクにしろよ。
まさか尾道までも自転車で行くつもりか?」
「まさか、新幹線で行くよ。」
そんな話をしてから、1年ちょっと。
遂に尾道に来た。
昨夜遅く尾道に着いて、ラーメンを食べた。駅前のビジネスホテルに着くと、宅配で送った自転車が部屋で待っていてくれた。
今日は海の上を渡って、向島、因島、生口島を経由し、大三島まで行く。そこで一泊し、翌日、橋の終着点の今治に着いたら、JRに乗って松山へ行き、道後温泉に一泊して飛行機で戻る計画。折りたたみの自転車はJRにも乗れるところがいい。
幸い天気にも恵まれた。小学生の頃習ったように瀬戸内海式気候は雨が少ないのかもしれない。交通量も少なく、海を渡る風が心地いい。橋の上はほぼ独占状態だ。
それほど休憩をとる必要もなく、昼過ぎには生口島まで来てしまった。
漁港の食堂で、昼食を食べていると、そこのおばさんが「サービス」といって大きなみかんを2つくれた。自転車の色に似ている黄色いみかんを防波堤にもたれて食べる。
のどかで、うららかな景色。
段々畑。道端に植えられた花。沖で海鳥が群れをなしている。
こういう島に生まれて育つというのはどういう気分なのだろう。店も自動販売機も信号さえもあまりない。
静かすぎる海があって、入江があって、畑があって・・・それだけだ。けれど退屈ではない。空が高く、平地の少ない島は、海に浮かぶ小山のようだ。
年寄りばかりでなく、若い人もここではゆっくりと歩いている。どこへも急ぐ必要などない。自動車もゆっくりと走っている。いつもよりもゆっくりとしたスピードで自転車を走らせる。
様々な船が沖合に見える。漁船、小舟、大きなフェリー。船が過ぎた後に緩やかな波がきらきらと反射する。
人の住んでいる島。人の住んでいない島。海に浮かぶ島々の景色は、ここに水軍がいた頃から変わらないのだろう。
この先に渡っていく橋が遠くに見えている。幼い頃に地面に書いた「けんけんぱ」の図柄を繋ぐように、小さな島を橋が繋いでいるのが分かる。
大三島の大木のある神社を回り、少し早く宿に着いた。
大三島では公共の宿に予約を入れていた。「二十四の瞳」にでてきたような小さな平屋の元学校。今は廃校になり、かつての教室が客室になっているらしい。廊下の端には、授業の始まりや終わりを知らせただろう小さな鐘が吊してある。
夕食まで時間があったので、校庭から続いている浜辺に出てみる。浜の端まで歩くと、そこから坂になっていて、段々畑を登っていくことができた。
登りきった所で、小さな岩に腰を下ろし、イヤホンを耳に入れる。
夜にはすることもないだろうと、道連れの音楽と180ミリボトルの余市を持ってきていた。小さな余市のキャップを開ける。そのままひと口、瓶から飲む。暖かい温度が身体の中を流れていく。
静かなトランペットの「ニュー・シネマ・パラダイス」が流れ出す。
今まで生きてきて、悲しかった記憶など全くないはずなのに、遠い過去の出来事を思い出すような感覚にとらわれ、ひどく懐かしく感じるのはなぜだろう。
それは自分の遺伝子の、どこか遠くにある悲しい記憶。思い出そうとしても思い出せない、失われた記憶だろうか。
気が付くと、海は黄金色に輝き、黒い島影が浮かびあがっていた。
日本にもこんなに美しい景色があるとは知らなかった。
トランペットの響きに合わせるかのように、ゆっくりと太陽が沈んでいく。
見渡す限りの世界が、ウィスキーと同じ色になって、溶けあっていく。
小さな変化が、全く予想もつかなかった所へ連れてきてくれることもある。
そんな小さな変化が集まり、記憶になり、思い出になるのだろう。
いつか、この美しい景色を誰かに見せてあげたいと思う。
それが誰なのか、今はまだ分からない。
沖のさざ波が浜辺に押し寄せる時、大きな波に変わるように、きっとどこかに居るその人は、小さな変化の果てに待っていてくれるだろう。
180ml分を黄昏の中で過ごし、世界が色を変えていくのを僕はじっと見ていた。
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