余市蒸留所写真 余市蒸留所写真

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第20話

第20話

それだけ当時の六本木界隈の水はキレイだったのである

早いもので、もう2004年である。戦中、戦後、そして高度成長期時代。日本は懸命にひた走り続けてきたが、今や時代は怒涛と混沌の真っ只中にある。それにしても街の様相は随分と変わった。柳がのどかに風になびいていた銀座も、東京で最初に本社を移転した日本橋も、馴染みだったはずが、今や出かけてみると迷子になってしまうほどだ。ニッカウヰスキー青山本社からほど近い、東京工場があった麻布界隈もすっかり様変わりしてしまった。

本社を日本橋に移転したのと同じ昭和27年、東京・麻布に建設中であった東京工場が竣工した。2級ウイスキーが売れ、関東圏をまかなうためにはボトリング工場が必要になってきたのである。

余市蒸溜所がある余市からウイスキーを運ぶためには貨車を確保して連絡船を経由して輸送しなければならない。ウイスキーは蒸溜所や工場から出した時点で酒税がかかるのである。この場合、高い酒税を会社が立て替える事になるのである。これらの問題を解決するためにも関東に工場が必要になったのである。麻布という場所が選ばれたのは「関東というからには東京に建設しようではないか」という政孝親父の提案によるものであった。

麻布に良い物件がある、ということで行って見ると官庁の外郭団体が所有していた土地と、蔦の絡まった、古くとも立派な建物があった。環境も良く広さも3500坪と申し分ない。政孝親父が日本興業銀行の総裁と面識があったので資金繰りも上手くいき、土地代も含めて2000万で工場を建てることが出来たのだった。

現在は工場の面影は全く残っていないが、ちょうど六本木ヒルズの位置である。当時は近くにスウェーデン大使館と北日ヶ窪団地があり、地続きにNET・日本教育テレビ(現テレビ朝日)があった。

工場の敷地内には池があり、じゅんさいが生えていた。よく見ると鯉や亀、ザリガニもいた。「じゅんさいが生えるところは水がキレイで、環境も良いのじゃ」と政孝親父は満足そうであった。窪地になっているので六本木界隈の地下水が池に湧いて出ていたのだが、政孝親父は「あそこは由緒ある池で、必ず主がいるに違いない。だから池を潰した奴には祟りがあるぞ。本人になければ子孫にあるぞ」と言い、池を埋めることを絶対に許さなかった。

工場を稼動した最初の頃は、井戸を掘って、その水をブレンドに使っていた。それだけ当時の六本木界隈の水はキレイだったのである。主な作業は瓶詰めであったが、銘柄によって瓶の形が違うため機械化が難しく、すべて手作業で行わなければならない。1本ずつ瓶を紙に包み、箱詰めしていく。忙しいときは事務所の人間も総出で手伝うのだが、なかなか思うようにいかずベテランの従業員から「下手ねぇ」と笑われたりしたものだ。

池のすぐ近くには大昔の井戸があり、そこは長州の毛利家の下屋敷跡で、乃木将軍[※]が産湯をつかったとも言い伝えられていた。池の中には島があり、そこで赤穂浪士の十人が切腹したということで義士達を祀った碑もあった。赤穂浪士討ち入りの日は弔いのために訪れた人々と共に彼らの冥福を祈ったものだ。そして何を意図していたのかはわからなかったが、二宮金次郎の像も建てられていた。様々な物語があり、由緒ある麻布工場を政孝親父はとても大切にしていた。

やがて時代は高度成長期時代を迎え、急激な需要の伸びに対応するには麻布工場は手狭になってきた。昭和41年には『ハイニッカ』、『ブラックニッカ』が好調で、年間売り上げが140億円を突破。昭和42年には千葉県柏市に建設中であった工場が完成。工場は柏に移転し、麻布の方はしばらくの間、事務所として使用することになったのである。

麻布工場を売却後も池は潰されることなく残っていた。テレビ朝日の方たちは池を「ニッカ池」と呼んで撮影に使ったり、春には池の周りに植えられた桜の木の下で花見を楽しまれたらしい。そして、六本木ヒルズの建設中も池は埋められることなく、現在は毛利庭園と共に都会のオアシス的存在として残っている。政孝親父の言葉を思い出すにつけ、「ああ、埋められなくて良かった」と安心しているのは私だけであろうか。

※ 乃木希典(のぎ・まれすけ)- 嘉永2年生まれ。ドイツに留学して軍制・戦術を学ぶ。日露戦争では第三軍司令官。明治天皇崩御の日に夫婦で殉死した。