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第4話

第4話

「わしはこんなもん、出さんぞ」と政孝親父が流した涙は今でも忘れられない。

1949年の春、大学を卒業した私は大日本果汁(ニッカウヰスキーの前身)に入社した。当時、工場は余市だけで、札幌、東京、大阪に事務所があり、工場の従業 員は百数十人くらいだった。瓶詰めなど、ほとんどが手作業なので人手が必要だったのだ。彼らは私を「タケシさん、タケシさん」と呼んでくれ、まるで家族が増えたような気がして嬉しくなったものだ。現場従業員と共に作業をし、共に遊び、共に飲んだ。スポーツはニセコでスキー、積丹半島で釣りを楽しんだ。工場内につくったコートで、よくテニスもやった。特に政孝親父はテニスが大好きであった。バックハンドが得意でいつも前衛。負けると怒られるので誰もペアを組みたがらない。結局私が後衛になって試合をするのだが、私も怒られるのはご免だったので、楽しむつもりが、いつしか真剣勝負になっていたりしたものだ。とても懐かしい思い出である。

入社してほどなく、私は原酒の品質管理や新しい商品の開発をする「研究科」に配属された。よく周囲から「威さんは政孝さんから手取り足取り教わることが出来て羨ましい」と言われたが、政孝親父は「習うより慣れろ」という、ある意味職人気質の人間だったので「手取り足取り」ということはなかったように思う。

間もなくブレンダーとしての仕事に入った。ブレンダーの重要な仕事は テイスティングである。品質管理や商品開発を行う上で、数多くの原酒の香り、味を正確に区別しなければならない。ウイスキーは嗅覚、触覚(舌触り)、味覚で判断するのだが、そこで大切なのは嗅覚だ。嗅いだときの香り、口に含んだときに鼻に抜ける香りで判断する。嗅覚を鍛えるために、いろいろな物の香りを嗅ぐのだが、私は野菜でも果物でも魚でも食べる前に、まずはにおいを嗅ぐようになった。今でもその癖が抜けず、ときどき連れや店の人などに妙な顔をされることがある。こればかりはブレンダーの性のようなものなので勘弁していただきたいと思うのだが。

研究室では毎日、工場の原酒の他、当時は入手が困難だった輸入ウイスキーを集めて参考にしてテイスティングを行ったりもした。ジョニーウォーカーやバランタインといった高級ウイスキーの香りが研究室に漂う。私が特に心惹かれたのは銘酒、ロイヤルハウスホールドだった。優雅で馥郁とした香り。繊細な舌触りのあとにピンと筋の通った余韻がいつまでも漂う。「いつかこれを超えるウイスキーをつくりたい!」と思ったものだ。政孝親父がウイスキーづくりの夢を実現するために単身スコットランドへ渡ったときも、これに似た感覚を覚えたのだろうか。政孝親父が抱いた夢を引き継ぐ。それはこれまで味わったことも無いプレッシャーを伴うものであったが、プレッシャーは決してマイナスではない。私にとってプレッシャーは、やる気と持続力をもたらすエネルギーの役割を果たしてくれる有難いものでもあるのだ。

当時、国税庁の醸造試験所で年に1度、国内外のウイスキーを何十種類も集めて、ブラインドで品質を評価するテイスティングが行われていた。試験所の先生たちも参加するのだが、私はウイスキー会社の社員ということで、いろいろ質問されることが多かった。こちらは専門なので間違うわけにはいかない。当時の研究所の先生は日本酒には詳しいがウイスキーに関しては決して詳しいとはいえなかった。独特の香味を持つスコッチウイスキーを「香りがおかしい。これは異常発酵している」と酷評することもあった。まだ輸入ウイスキーが珍しい時代でデータも限られているので無理も無い話だが。

1940年代には、政孝親父は製造現場のほとんどを我々に任せて、自分は経営面に専念するようになった。私がブレンダーチームと共に、初めて関与したのが1950年に発売した3級ウイスキー「スペシャルブレンドウイスキー」であり、これが後に「丸びんニッキー」となり「エキストラニッカ」となった。時代はモルト原酒がほとんどはいっていないイミテーションものの全盛期。政孝親父は断固として3級を出そうとしなかったが、原酒を貯蔵したままでは従業員の給与もままならない。考えあぐねた末、3級ウイスキーを発売することになったのだが、規定の上限である5%まで原酒を入れ、合成色素やエッセンスを一切使用しないことで他社のイミテーションウイスキーと対決しようとした。しかし「香りが低い」「すぐに褪色する」という事態は免れなかったのである。「わしはこんなもん、出さんぞ」と政孝親父が流した悔し涙は今でも忘れられない。