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第60話

第60話

リタおふくろ

先日、政孝親父とリタおふくろの墓参りのために、久しぶりに美園の丘へ行った。草木が生い茂っている中を、迷いそうになりながらも無事に墓前に辿り着いたところ、既に花束が供えられていた。定期的にお墓やその周辺の手入れをしているニッカ社員が供えてくれたのかもしれない。

さて、北海道では(各々の家で違いはあるだろうが)骨壷ごと墓所内に埋葬をせず、遺骨のみ墓所内に納められる“一族が一緒に”というのが一般的なようである。

リタおふくろが亡くなったとき、政孝親父は九谷焼の香炉を持ってきて「ここに孫と一緒にひとつずつ骨を拾ってくればいい」と言った。言う通りにしてそれを家に持ち帰ると、親父は、それを墓が完成するまでの間、床の間に置いて寝食を共にしていた。家を訪ねてきた人達は、まさか香炉に(遺骨が)入っているとは夢にも思わなかったに違いない。残りの遺骨は墓の後ろを掘って埋葬した。

そんなことがあった後、政孝親父は「わしの分じゃ」と香炉を買ってきた。おふくろと同じように葬って欲しいということだった。今、美園の丘の墓には、政孝親父とリタおふくろの遺骨が入ったふたつの香炉が納められている。

広島の私の実家の墓は小さな丘にあり、かなり古いものもそのまま残されている。代々申し伝えられていることに「お金が儲かったからといって、その人間が大きな墓を作るべきではない。皆、同じで公平であるべきだ」という申し伝えがあるそうで、それは確かに守られており特別に大きく立派な墓はひとつもなかったように思う。

それから、こんなこともあったそうだ。私はまだ学生で広島にいたので思い出話として聞いた話である。昭和10年の6月、ピクニックと称する第1回目のニッカ慰安会が行われた。従業員たちと賑やかに過ごすのが大好きだった政孝親父はとても楽しみにしており、前日のうちに5つの班が編成され、既に大きな鍋釜、食器、野菜、肉、調味料などが配られていた。

当日はリタおふくろも加わって、余市川の上流にある、オサルナイへ。到着するとすぐに炊飯に取り掛かる。政孝親父とリタおふくろは小皿とスプーンを片手に、班ごとに料理の味見をして回ったという。味にうるさい親父のことだから、あれやこれやと指示したに違いない。

ひとしきり食事を楽しんだ後は恒例の抽選会で盛り上がった。シャツやズボン、美顔水、口紅などいろいろな物が用意されていたのだが、シャツやズボンなどは皆の前で着てみなければならないし、美顔水や口紅はつけて見せるのがお約束であった。ある女性従業員が肌着を当ててしまい困惑していると、リタおふくろは肌着を彼女の肩に当てて「これで許してあげなさい」と助け舟を出したという。最後は全員にドーナツが配られ、後片付けと河原の掃除をしてお開きとなった。

その会に参加した小山内 祐三 氏は、政孝親父が亡くなったとき、当時を振り返って「・・・白い包み紙に少し油がにじんでいる。ドーナツだと聞かされた。見るのもいただくのも初めてである。リタ夫人が1日がかりで作られたことも伝わってきた。大きい輪と小さい輪もある。輪の中から白い雲も見える。リタ夫人は遠くから楽しそうに見ておられる。白いお砂糖がいっぱいついたあのドーナツなるものの美味しかったことは今も忘れられない」と社内報に綴っていた。

また、政孝親父は、恋愛・結婚観に悩んだある従業員に「愛というものは相手方の幸せを願う心なのだよ。お互い相手方の本当の幸せが何であるかをはっきり見定めて、それに沿った行動をとることが愛だと思う」と話したという。

終戦を迎え、世の中がどうなるかわからない状態の中で養子として政孝親父の家に迎えられ、60年以上が過ぎた。私はウイスキーづくりに携わる者として充実した日々を送ってこられたように思う。そして、これからも政孝親父が愛してやまなかったウイスキーの素晴らしさを多くの人達に伝えていきたいと願っている。