余市蒸留所写真 余市蒸留所写真

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第82話

第82話

ウイスキーに関することは記憶から引き出しやすい

つい最近のこと、竹鶴家がある竹原を撮影した古い写真をいただいた。高台から街並みを見下ろして撮ったもので、海の近くには塩田が広がっている。ふと、私が幼い頃、父親がガラス乾板に現像液を注いで写真を現像している姿を思い出した。家に暗室があるくらいだから、よほど父親はカメラ好きだったのだろう。赤いセーフライトが灯る暗室の中は独特の匂いがして、とても好奇心をそそられる場所であった。

その影響か、私も写真を撮るのが趣味になったのだが、最近ではフィルム式ではなくデジタルカメラで撮影することが多くなった。わずかな間にカメラも随分と進歩したものである。小さなメモリーカードに画像が保存されるようになり、たくさんの写真を連続して撮影することができる。これをパソコンに保存して必要なものだけをプリントすれば良いのだから大変便利だ。とはいえ、妙なところをいじって画像が消えてしまったり、プリントするつもりがそのままになっているものがあったりと、まだまだ使いこなすのは難しいようである。

さて、竹原は尾道と呉の間にあり、三方を山に囲まれたのどかな街である。竹鶴家は成井川の近くにあり、塩田と共に酒づくりを営んでいた。塩田は入浜式で、潮の干満差を利用して海水を塩浜へ引くものであり、揚浜式という海水を散布する方式よりも労力が少なくて済む。

政孝親父は兄弟そろって川向こうにある竹原小学校へ通っていた。橋が500mも上流にあり、まどろっこしいということで、兄弟みんなで父母に舟が欲しいと頼み込んだのである。念願叶って竹鶴家専用の渡し舟をつくってもらい、舟での登下校が始まった。朝は一緒に送ってもらい、帰りは堤の桜の木の下で待ち合わせ、全員が揃ったところで「お~い、帰るよ」と、大声で叫ぶと迎えの舟がやって来る。着物姿の子供たちを乗せた舟が川を渡る―のどかな光景だが、昔は川沿いに住む人たちにとって舟は交通手段のひとつであった。もう塩田はないものの、竹原の街が保存地区に指定されているので昔の姿を偲ぶことができる。

この竹原にある竹鶴家の三男・政孝のところへ養子に行くことになるのだが、広島で法事が行われたときに顔をあわせたときは子供心に“声が大きく、とても面白いおじさん”という印象だった。実はおっかないおじさんだと分かったのは養子に行ってからであった。

さて、蛇腹式写真機がデジタルカメラになり、誰もが携帯電話を持つようになるなど、私たちを取り巻く文明の進化は目まぐるしいものがある。パソコンもそのひとつであるが、最近よく「ブログを見てください」と言われるようになった。簡単に言ってしまうと、インターネットを利用した日々の出来事を綴る日記のようなものらしいが、随分とたくさんの人が、この「ブログ」というものを利用しているようだ。ニッカに関することもいろいろ紹介されており、蒸溜所を訪ねたことや商品を飲んでの感想、ニッカに対する想いなど、多くの方々がニッカウヰスキーに関心を持ってくださっているというのは大変有難いことである。

しかし日記といえば、日記帳やノートなどに筆記用具で綴るものであり、なるべく人目につかないところにしまっておくものというイメージがあった。保管場所は机の引き出しであったり、鍵がかかる場所であったり。しかし「ブログ」は(例外はあるが)不特定多数の人が読むことができるというオープンな日記のようである。

政孝親父は、スコットランド留学の際にウイスキーづくりに関することを細かくノートに記した以外は、物事を書き記すということをほとんど行っていなかったようだ。著書『ヒゲと勲章』には、

「私はいまだにノートも鉛筆もペンも持たない。重要事項は記憶しておくという主義だ。そして必要のないことはできるだけ忘れてしまうことにしている。これが案外長生きのコツかもしれぬ。したがってもう4、50年も前の思い出話となると、日時に関してはいささか狂いがあるかもしれない。だが、ことウイスキーのこと、酒のこととなると、まるで昨日のことのように思い出されるから不思議である」

と記している。

この回想録も随分と長く続いているが、我ながらよくもあれやこれやと思い出したものである。やはり、ウイスキーに関することは記憶から引き出しやすい。これはウイスキーのつくり手はもちろん、ものづくりに携わる人たちに共通することではないだろうか。