余市蒸留所写真 余市蒸留所写真

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第85話

第85話

戦時中を振り返る

8月に夏休みをとる企業が多いが、日本の場合、その多くがお盆休みである。お盆は7月13日から16日のところと、旧盆である8月13日から16日のところが主だが(15日に送るところもある)、これは地域によって異なるようだ。

お盆が近づくと必ず思い出すのが、終戦を迎えた1945年(昭和20年)8月15日正午、学校で聴いた玉音放送である。固唾を呑んで耳をそばだてたものの、電源のない鉱石ラジオから聞こえてくる天皇陛下の声は雑音交じり。しかも詔書中に難解な漢語があったため、内容はほとんど理解できなかった。結局、詳しい説明がなされて戦争の終結を知るまで、かなり時間がかかった。

そして同時に思い出すのは、6日の広島原爆投下。午前8時15分17秒、アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が広島県産業奨励館(現・広島平和記念碑)の西隣にある相生橋を目標に原子爆弾を投下したのである。その年、私は学徒動員で千葉県稲毛にあった軍事用アルコール製造工場にいたのだが、福山に戻ることになり汽車で帰路についていた。もうすぐ、というところで「この列車は広島を通過できません」のアナウンスが流れた。その原因が原子爆弾であったということは、ずっと後になってわかったことである。

1週間後、私は友達や知り合いを探して広島へ向かった。誰か知っている人はいないかと広島県産業奨励館へ行くと、ドームの鉄骨が剥き出しになり、木造の建物はすっかり焼けて内部が抜け落ちている。あちこちに瓦礫の山ができており、惨憺たる状態であった。それでも市内電車は中心部を除いて復旧し、焼け跡をガタゴトと走っていく。友達の家や学校がある場所へ行くと、建物は潰れていて、そこからたくさんの遺体が見つかった。

学校で当直をしていると誰かの母親と思しき女性が「○○という生徒の心当たりはありませんか?」と訪ねて来た。名簿を調べてみると、その生徒は亡くなっていた。「お会いになりますか?」と言うと、その女性は「・・・結構です。よろしくお願いします」と深く頭を下げ、ふらふらと帰って行かれた。どれだけの悲しみであっただろう。生き残った人達は皆、命があり、ただ生きている、という感覚しか残っていなかった。戦争は目に見えるものばかりでなく、人の豊かな感情や気力までも奪っていったのである。

終戦を迎えたものの、頭の中は空白だった。既に余市にいる政孝親父のところへ養子に行く話はあったが、家族は誰一人、養子のことを話題にしなかった。しばらくして政孝親父から「早く来い」と電報が来て、私はその年の12月20日、余市へと向かった。

鈍行列車での長旅である。指定席などあるはずもなく、立っているか、座れる場所を見つけて陣取るしかない。私は洗面所にある鏡の前の棚に腰を掛け、前かがみになってじっとしていた。居眠りするたびにはっとして座り直し、再び前かがみの姿勢に。バランスを崩したら下に座り込んでいる人達の上に落っこちてしまうからだ。そうしてようやく余市に辿り着いた日の夜、私は昏々と眠り続けた。

汽車といえば、その当時は、石炭を燃料にして走る蒸気機関車である。窓から乗り降りするのは当たり前、座席が空いていないと石炭を積んだ車両や貨物車両に乗った。石炭車両は当然ながら屋根が無い。煙突から吐き出される煙で鼻のまわりが黒くなり、トンネルを通過すると顔が真っ黒になった。

余市にいる頃、政孝親父と小樽の税務署などへ出かけるとき列車を利用したのだが、空席が見当たらないときは貨物車両に乗った。荷物を積むための車両なのでガランとしていて、座席など無い。床に座ってリタおふくろがつくってくれたおにぎりやサンドイッチを食べたのも、今となっては懐かしい思い出である。

戦争が終わった同じ年、ニッカウヰスキーは「陶器瓶入りウイスキー」(1級)を発売。戦後のインフレのため生産原価は高騰、食糧不足による保有原料大麦の提出や原料大麦の割当減などの悪条件にもかかわらず、将来に備えて原酒保有量の確保も懸命に行った。

現在はより品質の高い、良いウイスキーをつくることが目的であり、それが当然のようになっているが、戦時中を振り返ると、理想のウイスキーづくりができることは大変ありがたいと思わずにはいられない。