余市蒸留所写真 余市蒸留所写真

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第93話

第93話

リタおふくろの梅干

戸棚の中から小さなガラス瓶に入った梅干が出てきた。金属の蓋が一部腐食して、小さな穴が開いている。開けようとしたところ、錆び付いた蓋はなかなか回らない。それでも強引に開けると真っ黒な梅干が姿を現した。塩が結晶化しており、振るとカサカサと音がしそうなほど干乾びている。この梅干の出所は、近江五箇荘の豪商宅。ある方の鑑定によると天和3年(1683年)に漬けた物だということであった。

天和は1681年から1683年までで、この時代の天皇は霊元天皇、江戸幕府将軍は徳川綱吉。綱吉は上州館林の城主だったが、家綱の死によって将軍となった。生類憐みの令を発令したことは有名だが、湯島聖堂を建てたのも、儒学など学問に熱心であった綱吉である。

江戸の歴史でよく知られているのは、天和2年12月28日、天和の大火ではないだろうか。「八百屋お七の火事」といえばわかりやすいかもしれない。駒込大円寺から出火して下谷、浅草、本所、本郷、神田、日本橋に延焼、死者約3,500人を出したという大火事である。八百屋お七を題材とした浄瑠璃や歌舞伎もあるようだ。

梅干をくださった方からの手紙には「食べられますが、どこかで梅干の感じがある程度」とあった。しかし、随分前にいただいたものである上に、蓋に穴が開いて変質してしまったので口にするのは断念した。匂いは塩昆布のようである。300年以上も昔の梅干は食べられはしないものの、歴史のロマンを感じさせてくれる。

梅干といえば、リタおふくろが漬けた梅干もまだ残っている。余市にいる頃、台所の隅に壷が置かれているのを見つけたことがあった。開けてみると白い斑点があるので、捨てるつもりで外に出しておいた。するとその晩、どうしても壷のことが気になり“もしかするとあの白い斑点はカビではなく塩で、中身は梅干ではないか”と思ったのである。

翌朝、再び壷を確認すると正に梅干であった。亡くなったリタおふくろが“捨てちゃいけませんよ”と枕元で囁いて、教えてくれたのかもしれない。政孝親父は酸っぱいものが苦手だったが、リタおふくろは酸味のある食べ物が好きだったようである。ちょうど庭に梅の木があったのでつくり始めたのだろう。酸味が苦手な場合でも、これに甘味を加えると随分と食べやすくなる。

リタおふくろがよくつくっていたレッドカラントのゼリーは、赤い色がとても綺麗で、甘酸っぱく美味しかった(残念ながら、政孝親父は口にしなかった)。パンに塗ってジャムの代わりにしてもよい。スコットランドでは、よく朝食にジャムを食べる。このゼリーづくりを家内が引き継いだのだが、少々手間がかかる。実を煮てエキスを取り、濾してしばらく置くと固まり始める。レッドカラントにはペクチンが含まれているのでゼラチンは不要だ(上手く固まらなかったときはペクチンを追加すればよい)。

ゼリーやプリン、ケーキなど甘い物はいつの時代も人気がある。あるパーティーに参加したとき、面白いものを見つけた。自分でつくるソフトクリームメーカーである。そうたくさん食べられるものではないし、珍しくもないが自分でつくるということに楽しみがあるのだろう。

脳の活動を維持するために必要な栄養素は、糖質が分解されてできるブドウ糖である。また、甘いものにはリラックス効果があると聞いたことがある。確かに食後にデザートが出てくると、場の雰囲気が和む。人によっては「ウイスキーのほうが嬉しい」かもしれないが。

さて、幸い捨てられずに済んだリタおふくろの梅干は、まだ手元にあり、食べられる状態である。いつだったか余市でニッカを飲みながら梅干を食べるツアーを計画しようとしたが、実現しなかった。ひとりではつまらないので何人か集まったところで、と思い、梅干はまだ大切に保存してある。実現する日が楽しみである。