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竹鶴ノート

日本の本格ウイスキーづくりは二冊のノートから始まった。青年、竹鶴政孝の情熱の結晶。「頭の良い日本の青年が、1本の万年筆とノートでウイスキーづくりの秘密を盗んでいった」。かつての英国首相は、ユーモアと親愛の情を込めてスピーチしたという逸話があります。それこそが、青年、竹鶴政孝が書き綴った二冊のノート、通称「竹鶴ノート」。
スコットランド研修の集大成ともいえる歴史的な報告書をご紹介します。
綿密に描き、書きこまれたウイスキーづくりの工程。 竹鶴政孝は、1918年12月にスコットランドへ到着。翌1919年にスペイサイドのロングモーン蒸溜所にてモルトウイスキーの製造実習、ボーネスのジェームス・カルダー社工場にてグレーンウイスキーの製造実習を積み重ねます。そして、1920年の中頃、キャンベルタウンにあるヘーゼルバーン蒸溜所にて再度、モルトウイスキーの製造実習とブレンド技術の習得に臨みました。その際、学んだウイスキー製造工程のすべてをメモに残し、宿に戻った後、自らの意見を添えて書き記したのが『実習報告』と題された「竹鶴ノート」です。内容は驚くほど詳細で、設備のイラストも交え、綿密に書きこまれています。竹鶴の帰国後、日本の本格ウイスキーづくりは、この二冊のノートを元に発展していきました。1934年に設立した余市蒸溜所の石炭直火蒸溜によるポットスチルも、実習先の蒸溜所に倣ったものであることが分かります。 ポットスチルの比較
当時のキャンベルタウンウイスキー産業を知る、スコッチウイスキーの歴史資料としても貴重。 竹鶴ノート 竹鶴政孝の留学頃までウイスキーづくりが盛んだったキャンベルタウンは、その後、ウイスキー産業が衰退してしまいます。現在、ヘーゼルバーン蒸溜所の記録・資料は「竹鶴ノート」以外にあまり残っていません。また、ノートには製造方法の他、スタッフの労働条件なども記載されており、当時のスコットランドのウイスキー工場経営を垣間見られる資料としても貴重なものといえます。「竹鶴ノート」には、キャンベルタウンの風景や蒸溜所の内観・外観を撮影した写真も複数添付されています。そのうち、海のすぐ近くまで街並みが広がるキャンベルタウンの風景は、北海道余市とそっくり。竹鶴が、余市に蒸溜所を建てることを決意したのはキャンベルタウンの風景が頭の片隅にあったことが伺えます。 キャンベルタウン 余市
「出来る限り小規模に」という決意。ウイスキーづくりは設備ではなく、人の心だ
数々の蒸溜所を視察した竹鶴は、ウイスキー工場経営の難しさを実感したのでしょう。
1920年の時点で将来を見据え、「着実なる事業の発展」を念頭に置いたようです。
実際に1934年、余市蒸溜所の開設当時、通常であれば初溜用と再溜用の二基を設置する
ポットスチルは、資金繰りの面から一基しかありませんでした。そのため初溜後のポットスチルを丹念に清掃し、再溜用として使用。大変な労力ではありましたが、竹鶴は「ウイスキーづくりは
設備ではなく、人の心だ」と、従業員と自分を激励し、本格ウイスキーづくりに邁進します。
今まで視察したウヰスキー工場の建築についてこれを見れば殆ど全部事業の発展と共に漸次増築した形式を止めております。従って工場の風采から云えば甚だ見苦しいのでありますけれども、着実なる事業の発展から云えば止むを得ぬ方針だと思います。そこで本社に於てこの制度を応用するにあたりて、最初は出来る限り小規模に実施してみたいと思います。
退出時間が来たら遠慮なく家に帰り、家族と楽しい夕べを過ごすこと。それこそ「人として踏むべき道」。
「竹鶴ノート」には、ウイスキー製造に関することのみならず、社員の待遇や働き方、労働環境に
ついても書かれています。「効率をはかり退出時間が来たら遠慮なく家に帰り」家族とともに
「楽しい夕べを過ごす」ことは、「凡そ人として踏むべき道」である、と。大正中期にあって、
このような意見を誰はばかることなく書くことのできた日本人は多くはなかったでしょう。
竹鶴は機会あるごとに家庭を大事にすることを奨励。また、ニッカウヰスキーでは、竹鶴をはじめ
社員一同挙げて、家族も交えてのレクリエーションやスポーツクラブ活動が盛んに行われました。
そして、「よく働き、よく遊ぶ」というのがニッカの社風のひとつとなったのです。
要するに一般社員も出来る限り仕事の迅速をはかり、より以上一日の効率をはかり退出時間が来たら遠慮なく家に帰り家庭をもつものは皆々揃って楽しい夕べを過ごすと云うようになって欲しいと思います。これは単に人生を有意味に暮らすという事のみならず、凡そ人として踏むべき道ではありませんでしょうか。

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