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新妻を伴い帰国

第3回

新妻を伴い帰国

「わたしも共に生きマサタカさんの夢をお手伝いしたい」

周囲の反対、やがて祝福に

スコットランドの朝食の定番にキッパーズ(ニシンの薫製)がある。
広島で育ち魚好きの竹鶴政孝にとって、少々塩辛くともこのキッパーズは故郷を思いだすうれしい食べ物だった。
しかし、留学から半年過ぎたころ、キッパーズすら食べられないほどのホームシックになる。
自伝「ウイスキーと私」(日経新聞連載『私の履歴書』に加筆、ニッカウヰスキー発行)では、「夜、うとうとしているあいだに涙が出ていて、朝、気がつくと、枕がグッショリぬれている。そして日本に帰った夢をよく見た。母が出てきて『イギリスでの勉強は終わったのか』と私に質問する。返事ができないでいると『そんなことでどうします。すぐ引き返しなさい』としかられる。帰るといっても船がない。どうしようと困って目がさめる」と、そのつらさをつづっている。
このころ出会ったのが同じグラスゴー大学で学ぶイザベラ・リリアン(エラ)・カウンの姉、ジェシー・ロバータ(リタ)だった。姉妹の父はグラスゴーの郊外で開業医をしていたが前年、急逝。大きな屋敷で母と姉弟四人が暮らしていた。
大正八(一九一九)年夏、末弟に柔道を教えるためカウン家を訪れた政孝は、文学少女の面影を残した大きな瞳のリタに会う。ピアノを弾くリタは、政孝が鼓(つづみ)を持ってきていることを知り、演奏を聞きたいと頼んだ。
「ヒゲのウヰスキー誕生す」(川又一英著)によると、リタは「何か二人で合奏を。
『オールド・ラング・サイン』ならご存じでは?」と誘った。
日本では「蛍の光」の題で知られる有名なスコットランド民謡である。
「悲しい別れの歌ですね」という政孝に、リタは「いいえ、懐かしい昔をしのんで、杯を手に友と語り合おうという歌です。スコットランドを代表するロバート・バーンズの詩です」と教えた。 そして、二人は英語と日本語で何度も歌った。
その秋、フランスのボルドー地方へワイン作りの勉強に訪れた政孝は、リタに香水を贈った。
その返礼にと、リタはバーンズの詩集を贈る。そこには「私の大好きな詩集を、日本の大切な友人へささげます」と書かれていた。
十二月、政孝はカウン家のクリスマスに招かれる。 カウン家では毎年、六ペンス銀貨と指ぬきを入れた大きなプディング・ケーキを作る。
独身の男女に切り分けられたケーキのなかに、銀貨と指ぬきが入っていれば、将来結ばれるという言い伝えがあった。その夜、銀貨が政孝の、指ぬきがリタのケーキから出てきた。
次第に心を通わせていった二人だが、政孝には帰国してやらなければならないことがあった。
「もしあなたが望まれるなら、日本に帰るのを断念して、この国に留まってもいいと考えています」
思い悩んで切り出した政孝にリタは応えた。
「私たちは…スコットランドに留まるべきではありません。マサタカさんは大きな夢に生きていらっしゃる。わたしもその夢を共に生き、お手伝いしたいのです」
リタは、竹鶴リタとして日本で生きる決意を固めていた。政孝も両親と阿部喜兵衛社長に結婚したいという旨の手紙を送った。
大正九年一月八日、二人はグラスゴーのカルトン登記所で結婚の宣誓を行った。リタの母や周囲の反対によって、教会で式が挙げられなかったのだ。

結婚を急いだのには理由があった。政孝は精力的に蒸溜所見学を続けていたが、その年、キャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸溜所で数カ月間の研修が決まっていた。二人はもはや離れ離れでいることはできなかった。グラスゴーの港から船で五時間。二人の新婚生活はキンタイヤ半島の先端にあるキャンベルタウンで始まった。ここも全盛期には三十以上の蒸溜所が集まったウイスキー産地だった。
ヘーゼルバーン蒸溜所の工場長は、恩師の友人だった。それまで訪ねたほとんどの蒸溜所でメモや質問は断られ、トイレに行っては忘れないようにメモしていた政孝だが、ここでは理論だてて、じっくり学ぶことができた。
政孝がここで得た知識を記録したノートが今も残っている。具体的なウイスキーの製造方法から、酒税や社員待遇問題、販売方法まで、几帳面(きちょうめん)なきれいな文字で記録したノートからは、帰国後のウイスキー工場の青写真ができあがっていたことがうかがえる。

すでにヘーゼルバーン蒸溜所は閉鎖されており、現在、キャンベルタウンに残る蒸溜所は二カ所のみになっている。
そのひとつが日本にもファンの多いスプリングバンク蒸溜所だ。
マーケティング担当のケイト・ライトさんは「ここは昔と変わらない製法ですので、タケツルさんの学んだころのウイスキーの個性を一番残していると思います。
この町のよく知られた地名でもあるヘーゼルバーンの名前をつけたウイスキーを一九九七年から作り始めました」と誇らしげに話す。この「ヘーゼルバーン」は来年から発売される予定だ。
政孝とリタは、今も町の中心で営業中のホワイト・ハートホテルに滞在した。リタにとって新婚生活は、ゆっくりと読書をしながら政孝を待つ、穏やかで幸せな日々だった。そこに、リタの母が、妹の説得で結婚に賛成してくれたといううれしい知らせが届く。
一方で、政孝の広島の実家では、外国人との結婚に大反対だった。キャンベルタウンでの研修が終わるころ二人の結婚を思いとどまらせようと、摂津酒造の阿部社長が英国を訪れる。が、すでに二人は結婚していた。当時、日本までの手紙が届くのに二カ月近くかかっていた。
「優しい人だし、なかなか美人だね。日本に連れて帰るように」
阿部の言葉にリタは飛びあがるほど喜んだ。
二人はグラスゴーのステーションホテルで、リタの家族や阿部に祝福され正式な結婚式を挙げた。そして十一月、政孝は新妻を伴い横浜港に帰国した。
=敬称略(田窪桜子)