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最愛の妻

第7回

最愛の妻

「鼻がもう少し低ければ。目も髪も黒くなれば」日本人以上に夫を支え

漬物も塩辛も… 徹底的に勉強

竹鶴政孝の人生を語る上で欠かせないものがふたつある。
ウイスキー、そしてスコットランドで出会った妻、リタだ。
「ヒゲのウヰスキー誕生す」(川又一英著)によると、リタは大正九(一九二〇)年、英国から日本へ渡る船の中で、はしの使い方を練習していた。
着物の帯に興味を示したり、東京へ向かう汽車の中で稲穂を見て「あれは何?」と質問するなど、一日でも早く日本の生活に溶け込もうと努力した。
リタは日本に来てまもなくから政孝のことを「マッサン」と呼んだ。「マサタカ・サン」の発音が難しかったからだ。
「日本語を覚えたい」というリタに、政孝は「日本語より日本料理を習ったらどうだ。
一人前に日本料理が作れたら立派な日本人だ」と答えた。

政孝とリタは実子にめぐまれなかった。

跡継ぎとして政孝の姉の子、威(たけし)(現ニッカウヰスキー相談役)に白羽の矢が立った。
広島県福山市で生まれた威は、戦争中は、学徒勤労動員によって、千葉県内で燃料用アルコールを作っており、原爆投下の直後に実家に帰っていた。
終戦を迎えると、二人は威を呼び寄せるとともに、工場内にあった自宅を歩いて二十分ほどの山田村に移築した。威は北海道大学工学部を卒業した二十四年、大日本果汁(現ニッカウヰスキー)に入社した。
昭和二十六年、威は結婚し山田村の家の離れで生活するようになる。
妻の歌子は結婚後五年間、料理をしたことがない。お嬢様育ちでご飯を炊いたこともない歌子に対して、リタは「そのほうがいいのです」と台所仕事をやってみせた。歌子は黙ってノートを取り、竹鶴家の味を覚えた。 秋になると竹鶴家の家の前にはずらりと樽(たる)がならんだ。ウイスキー用ではなく、一年分の大根を漬けるためだ。
歌子によると、竹鶴家では、九月から樽を洗い三百六十五本の大根を干し、必ず十一月五日に漬け始めた。すぐ食べるものと夏までもたせるものとでは、塩加減もかえた。白菜漬けもイカの塩辛つくりもリタの仕事だった。
「塩辛は、どんなに冷たくても母は毎日素手でかき混ぜていました。人肌の温度が塩辛をおいしくするって言って」
政孝ののぞんだ通り徹底的に日本食を勉強したリタは、漬物も塩辛も名人になっていた。
リタは昼の弁当を十一時に作り始め、できたての温かいものを毎日、工場に届けた。
政孝や威の帰宅時間にもうるさかった。
「リタおふくろは、予定よりちょっとでも遅くなると機嫌が悪くなってね。『ゆでたジャガイモも、粉をふく一番おいしい瞬間に出せるように準備しているのだから』って怒るのですよ」
歌子は結婚した当初、竹鶴家の食べ物へのこだわりに驚いた。
「父は大根を煮て食べるときも、朝採ったものではダメなんです。雨でも目の前で採ってこないといけない。それで『うまい、うまい。これが最高のぜいたくだ』って大喜びですから、憎めないですよね」
ただ、リタ自身は和食をほとんど食べなかった。二十七年に東京に本社を移してから、政孝の留守が増えた。そうなると「命の洗濯」とばかりに、若い息子夫婦と洋食を楽しんだ。
「金曜の夜はローストビーフが決まりでしたね。スコッチブロスという大麦や野菜が入ったスコットランドの伝統的なスープや、クリスマスのプディングケーキなど、何でもおいしかったなあ」と威は懐かしむ。
後にリタが入院したとき、歌子が正月料理を用意したことがある。それを見たリタは「私はもういらなくなったのですか」と嘆いた。家族にきちんとした料理を食べさせることは、リタの生きがいだった。

二十七年、威に長男の孝太郎が、二年後に長女、みのぶが誕生した。孝太郎の名前は、生まれる前から政孝が孝の字をとって決めたものだ。
子供たちを風呂に入れるのはリタだった。
政孝は家の前に車が通るのを心配し「子供に注意」の看板を立てた。どんなに忙しくても、入学式や運動会など行事には必ず参加した。
日本人以上に日本人らしく夫を支えていたリタだったが、昭和十五年以降は、つらいことも多かったようだ。
結婚と同時に英国から日本に帰化していたとはいえ、「鬼畜米英」が合言葉だった時代、「アメリカ!アメリカ!」と子供たちによく、はやしたてられた。
故郷スコットランドに帰りたいとは一度も言わなかったリタだが、「この鼻がもう少し低ければ。目も髪も日本人のように黒くなれば」ともらしたことがある。
第一期社員の小山内祐三は、よくリタの外出のお供をした。
「いつも特高警察が見張っていました。家のラジオのアンテナを暗号発信機じゃないかと調べにきたこともある。リタさんもだんだん遠慮して出歩かなくなって、かわいそうでした」
戦争中の気苦労もあったのだろう。二十年代後半から、もともと丈夫ではなかったリタは体を壊し、夏は余市で、冬は鎌倉の家で過ごすことが多くなった。
毎週のように政孝の家の手伝いにいっていた社員の工藤光家は、三十五年十二月二十四日も竹鶴家にいた。
「クリスマス・イブの用事を済ませて帰ろうとすると、いつものように『コーヒー飲んでいきなさい』って。帰ろうとすると、手を握ってもう一杯飲んでいきなさいっておっしゃって…」 翌年一月十七日早朝、工藤は政孝に呼びだされた。リタが亡くなった。
「リタがついにこうなってしまったよ」
弱音をはいたことのない政孝が泣いた。工藤も声を上げて泣いた。
政孝はこの後二日間、葬式の準備も威に任せたまま、部屋に閉じこもっていた。火葬場にも行かなかった。
リタの墓は、余市蒸溜所を見下ろす美園町の墓地に建てられた。政孝はその時、自分の名前も一緒に刻んだ。あとはただ日付を入れればいいようにして。
=敬称略(田窪桜子)