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本懐

最終回

本懐

「スコットランドでも3つのタイプの工場をつくった人はいないはず」

あふれる達成感、病床でもグラス離さず

平成十三(二〇〇一)年、世界唯一のウイスキー専門誌「ウイスキーマガジン」主宰のウイスキー鑑定イベントで、ニッカウヰスキーの「シングルカスク余市10年」が、一位に選ばれた。
著名パネリストが、銘柄が隠されたままテイスティングし、その総合点で評価するものだ。
「シングルカスク」とは一つの樽(たる)からそのままびん詰めしたものをいう。
一カ所の蒸溜所でつくられたモルトウイスキーを詰めたものは「シングルモルト」、複数の蒸溜所で作られたモルトウイスキーを混ぜたものは「ピュアモルト」と呼ぶ。
ニッカウヰスキー社長、宇野正紘は「シングルカスクで評価されたこともうれしかった。
近年、ブレンド技術は進化していて、他社の原酒を入れたピュアモルトも多いのですが、あえてシングルカスクを選んで鑑定に出したブレンダーもすごい。ニッカの誇りです」と胸を張る。
宇野は昭和三十八(一九六三)年入社。直接ウイスキー作りに携わってきた技術系出身なだけに実感がこもる。
「物事には何でもまず基本があります。竹鶴さんが伝えたかったのは、結果としていい酒を作るためには、物作りの基本に忠実であることが大事ということ。その一方で、新しいことも必要だと、下っ端の私たちの話も聞いてくれて自由に挑戦もさせてくれた。それがこの評価につながったのです」

政孝が手本にし目標としたスコットランドのウイスキー産地は、主に北のハイランドと南のローランドに分けられる。ウイスキーの個性には気候風土が大きく影響するため、北と南の産地の違いによって味や香りのタイプも異なる。さらに、とうもろこしなど穀類を主原料としたグレーンウイスキーもある。
政孝の夢は、その全タイプのウイスキーを日本で作ることだった。
まず、昭和三十四年、兵庫県の西宮に工場を建設、三年後にカフェ式連続蒸溜機を導入した。
あえて旧式の機械を選んだため原料の香味成分が程よく残り、個性的なグレーンウイスキーを作るのに適していた。
さらに余市蒸溜所(北海道余市町)に続き四十四年、宮城峡蒸溜所(仙台市)を建設。日本版ハイランドとローランドとなる、北と南、両タイプのモルトウイスキーを作る態勢を整えた。
政孝は自伝「ウイスキーと私」(日経新聞連載「私の履歴書」に加筆、ニッカウヰスキー発行)に誇らしげにこう記している。
「三百数十年の歴史をもつスコットランドでも、三つのタイプの工場をつくった企業も人もいない筈(はず)である。幸いにも命ながらえて、その宿題を達することが出来た。私は、ウイスキーに生きた男としての幸せを、今更のようにかみしめている」

ニッカウヰスキーは平成元(一九八九)年、スコットランドのフォート・ウイリアムスにあるベン・ネヴィス蒸溜所を買い取った。ベン・ネヴィス蒸溜所は一八二五年に設立された歴史ある蒸溜所だったが、一九八三年に閉鎖されていた。
政孝の長男の威(たけし)(現ニッカウヰスキー相談役)によれば、現地の反感をおそれて、極秘に交渉をすすめてきたが、地元の新聞にすっぱ抜かれ、さらに好意的な内容だったので驚いたという。
「誰がオーナーでも、いいものを作ればいいということなのです」
改めてスコッチウイスキーの懐の大きさを実感した。
平成十四年、スコットランドに政孝の足跡をたずねた威は、政孝が学んだグラスゴー大学にも足を運び、大学に五千ポンド(約一百万円)を寄付した。
大学ではこれを基金に「タケツル賞」を制定。毎年、化学の修士課程から最優秀学生を選び百ポンド(約二万円)ずつ賞金を出している。
マルコム・マクラウド副学長は「これまでの受賞者二人はどちらも女子学生なんですよ。グラスゴー大で学んだ留学生が日本にウイスキー文化をもたらし、さらにこういう形でスコットランドの学生につながっているのは、とてもワンダフルなことです」と話す。
政孝は自分でもよく酒を飲んだ。
体が衰えるまでは毎晩、ウイスキーのボトル一本を空けていたという。何を飲んでいたのだろう?
「高級なウイスキーを飲んでいると思われていたようですが、『一番売れているものを飲むんだ』と、いつもハイニッカでした」と威はいう。

飲み方にもこだわりがあった。
「水で割るのが最も味と香りがわかる」と必ず、「ウイスキー1に水が2」の割合と決めていた。
広島県竹原市にある政孝の生家、竹鶴酒造の社長で、政孝のいとこの息子にあたる竹鶴寿夫はいう。
「広島で一緒に寿司屋に行ったとき、政孝さんがいるのでニッカのウイスキーを出そうとしたら、『日本酒にしろ。食事に合った酒が一番いいんだ』と怒ったんですよ。
その後、クラブに行ってウイスキーを飲みながらつまみを食べようとしたら今度は、『ウイスキーを飲むときは、何も食べるな!』とまた怒られました」

政孝は昭和五十四年八月二十九日、亡くなった。 八十五歳だった。
入院中は、衰えた寝間着姿を見せるのを嫌い面会は近親者だけにし、病院食は絶対に食べなかったという。ただ、飲むほうだけは全く変わらなかった。
最後に入院したときも、「医者はわしだけにはウイスキーを飲むことを認めてくれたぞ」と、うれしそうに水割りを飲み続けた。
そう、政孝からウイスキーを取り上げられる人は誰もいなかった。
=敬称略(おわり)
(田窪桜子)