余市蒸留所写真 余市蒸留所写真

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竹鶴政孝物語 第3章

【第三話】
理想の形象化

「本格ウイスキー」をつくるという理想をかかげ、単身渡英した青年・竹鶴政孝。ウイスキーの本場、スコットランドの蒸溜所で実習を積みかさね、夢と生涯の伴侶をたずさえて帰国した。以来、政孝は幾多の困難をも乗り越えて、国産本格ウイスキーの誕生に奔走する。この男の心の中には、穏やかな、時に怒涛逆巻く大河が流れている。それは日本の本格ウイスキー誕生にまつわる、苦闘と歓喜の流れと重なりあう。
 今宵、汲めども尽きぬ滔々たる浪漫のほとりに、しばし翼を休めまいか。人は夢があるから前進できる……。

大日本果汁株式会社を設立、連続する試練

「あの会社は、林檎の汁を搾ってるそうだ」
「見ばえがよくない林檎でも、買ってくれるんだとよ」
 鰊で栄えた積丹半島・余市の町は林檎ジュースの話で持ちきりであった。工場の敷地という敷地は、林檎の山で甘美な香りが充満していた。
 一九三四年、大日本果汁株式会社を設立。政孝不惑四十歳の七月であった。まず、地元特産の林檎に眼をつけた。ウイスキーは蒸溜してすぐに売れるわけではない。また設立直後で、資金は不足していたし、製造体制も未完であった。だがジュースなら、割砕機や圧搾機があれば林檎をくだき、搾ってビン詰めすれば商品になる。そのジュースを売りながら、ウイスキーをつくることをもくろんだ。
 しかし、今でこそ林檎ジュースはあたりまえだが、ペクチンが凝固して白濁したり、味覚的にも一般に受け入れてもらうには早すぎた。
 思うようには売れず、工場には返品の山ができ、経営的には本筋のウイスキーづくりにも影響がでた。東京からクレームの連絡が入ると、夜行にとび乗って、説得に駆けつけた。ジュースという名前がいけないと言われ、「林檎汁」としてもみたが、結果は芳しくなかった。
「このままでは株主の皆様に、顔向けできない」
 政孝は、木造平屋建の十六坪の事務所で、軒先きにぶらさがるつららをにらみながら、自らの腑甲斐なさになさけなくなった。
 政孝のほか、旧知の加賀正太郎、芝川又四郎、柳沢保恵らが出資者である。
「資金のことは心配無用です。竹鶴さんは一日も早く本格ウイスキーをつくってください」
 筆頭株主、加賀の言葉に後押しされて、原酒をつくり続けた。

政孝のうたう子守歌

 各工程の技術陣も勢ぞろいした。心待ちにしていたポットスチルもやっと届き、ウイスキーはもちろん、林檎ブランデーの蒸溜も可能になった。借金に借金をかさねながら、ただひたすら原酒づくりに邁進する日々は続き、余市川ほとりの沼地の中洲に、貯蔵庫も建てられた。
 入ると床は土間で、湿気と冷涼な空気につつまれる。この環境こそが、理想のウイスキーをつくる子守歌なのだ。
「ウイスキーは心をこめてつくり、あとはゆっくり寝かせてあげるだけ、樽も三段以上積んではいかん」
 政孝は中州に建つ、ほの暗い貯蔵庫にたたずむことを好んだ。積まれた樽は、労苦のかたまりに見え、銀行や株主の顔が去来する。かとおもえば、「希望」という名の液体が、時の変容に身をゆだねているようでもあり、数々の恩人との思い出がゆらぎたつ。
 貯蔵庫の樽は「時」と戦っている。それはまさに、その様子を厳しく慈愛を込めて見守る政孝こそが試されているのである。
 貯蔵庫の外では、きなくさい戦争への兆候がただよっていた。

リタに戦争がのしかかる

 竹鶴政孝が、スコットランドで生まれ育ったウイスキーを日本でつくる戦いに挑んでいた裏側に、まるで政孝の陰画のように寄り添っていたリタがいた。彼女はスコットランド人だが、国籍を超えて終生、日本文化にとけ込もうと懸命であった。リタの献身は料理や漬け物、塩辛などにも及び、社員に大評判であった。
 すでに日本に帰化し、政孝や養子の威を支えることを無上の喜びとしているリタを、戦争が傍若無人に蹴散らしはじめた。
 ある日、気丈なリタには珍しく、泣きはらした眼で訴えた。
「わたし、日本人なのに、どうして尾行されるの。この眼と髪を黒くして、鼻を低くしたい」
「君は間違ってないよ、リタ」
 政孝はリタの震える肩をだまって抱いた。悲痛な思いを粉々にくだくほどに強く抱きしめた。

「ニッカウヰスキー」誕生

 文字どおり苦闘のすえ、一九四十年に宿願の「ニッカウヰスキー」を世に送りだした。名前の由来は「大日本果汁株式会社」を略して「日果」(ニッカ)、本格ウイスキー誕生の歴史的瞬間。じつに、スコットランド留学から数えて二十二年目の秋であった。
「マッサン、やっとできましたね」
 リタがまず頬を紅潮させて祝福した。
 透明の角型瓶には、切り子の格子模様が斜めに入っている。研究室の窓から机の上に置かれた瓶に、余市晩秋の光がさし込み、政孝とリタを囲む技師たちに反射して、あたかも崇高な光のかたまりが、天から降りて来たようだ。だれもが至福の表情で、瓶の中にいきづく琥珀色の液体に、いつまでも見入っていた。
 万感胸にせまる想いをおさえて政孝は、冬近い余市の空を見上げた。このウイスキーを摂津酒造の阿部社長、グラスゴーのウィルソン博士、ヘーゼルバーン蒸溜所の老職工、ロングモーン蒸溜所のグラント工場長を始め、留学中に体あたりしていった恩ある人々に捧げたい……。遙かスコットランドに心をはせた。

 思い起こせば、ウイスキーがつくりたくても叶わぬ日々があり、日がな一日、皆で敷地内の草むしりや、そうじをすることもあった。札幌の税務監督局に酒造免許申請のために日参したり、銀行の支店長の机の前で融資を取りつけるまで居座ったことも、あらゆる思い出が〈生命の水〉の中に吸い込まれていった。

粗悪品の横行

 戦争が終結してしばらくした一九五十年、ウイスキーなどの公定価格がなくなり、自由競争の時代に立ち返った。
 市場は三級ウイスキーでにぎわっていた。それは税法上〈原酒が五パーセント以下、ゼロパーセントまで〉と規定されているものであった。多くの三級ウイスキーは、アルコールに合成色素や香りを混入した模造品であったが、政孝は断固として、品質を第一に考える姿勢をかえようとしなかった。ニッカは以前と変わらぬ一級ウイスキーを、三級ウイスキーが三百円台の時、一本千三百五十円で売っていた。

 政孝の頑固さは、裏がえせば自分のつくるウイスキーへの自信と誇りであった。 「こんなことがあっていいものか。原酒が一滴も入っていなくとも、税金さえ払えば三級ウイスキーとはなげかわしい」
 政孝は吼えた。吼え続けた。