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蒸溜所建設こぼれ話

竹鶴威たちが秘密裡に東北の地を巡り、
竹鶴政孝が川の水で作った水割りを飲んで建設を決定したという宮城峡蒸溜所。
その誕生にはさらにいくつかの秘話があった。

「ポケットびん」がつなげた夢

候補地として内定したあと真っ先にやらねばならなかったのが良質な水の確保。

ニッカウヰスキー仙台支店勤務の中島は、50本の『ハイニッカ』ポケットびんの空びんをリュックに入れ、新川の上流へ1週間をかけて分け入った。

登りのルートに空びんを置きながら進み、帰りに水を汲んで回収するという方法で熊が出そうな沢をいくつも登ったとのことだ。

当時、『ハイニッカ』ポケットびんは東京工場(麻布工場)でつくられており、空びん50本を仙台支店に送るためには使用目的を明確にしなければならなかった。宮城峡蒸溜所の建設は社内でも特命機密事項だったため、沢登りに加え、機密保持の面でも一苦労。結果、支流別に採取された新川の水はすべて水質基準を満たし、合格したのだった。

清流を守った熱意

工事も順調に進行し工場の形が見えてきた頃、新川の流れが濁り出す。

竣工式は全国から大勢のお客様をお迎えし、政孝が水を汲んで『ブラックニッカ』の水割りを飲んだ場所を見たいという方々をご案内することも予定されていた。

川が茶色に濁った状態では印象が良くないということで今回も中島が原因究明に乗り出し、上流に遡って行くと濁流の原因がすぐに分かった。川岸にダンプカーが待機し、川の中では砂利採取のためにショベルカーが川底を掘り進んでいたのである。

中島は、砂利採取業者の元へ行き、ニッカが原酒工場を建設中であること、工場では新川の水を仕込に使っていることなどを説明し、上流での作業を中止してもらえないかと懸命にお願いした。しかし、業者の側からすれば勝手なお願いであり、即座に拒否。

困った中島は悩んだ末、相手と同等の立場に立ってお願いすることを目指して猛勉強。砂利採取業の資格を取得し、再びお願いに行った。中島は前回の非礼を詫び、砂利採取の勉強をし、その仕事の大変さを理解した上で改めて採取場所の変更を申し入れた。業者の方は中島の熱心さに感心し、「そこまでしてお願いされたら協力するしかないな」と言って上流での砂利採取を中止されたとのこと。

そして、その翌日から新川はいつものような清流に戻ったのである。

竣工式での政孝の嗅覚

竣工式は1969年5月10日に混和棟で華やかに開催された。紅白の幕が張り巡らされた広い会場には、仙台を代表するお店の屋台もいくつか用意され、全国からの大勢のお客様をお迎えすべくスタッフが準備にいそしんでいた。
その様子を点検に現れた政孝は、会場に一歩足を踏み入れるなり、「何だか変な香りがする」と鼻をヒクヒク。周りにいた社員の誰もが気づかずにいると、政孝は壇上に掲げられた看板を指差し、「看板のペンキの匂いが残っている」と言ったとのこと。

確かに看板は直前に掲げられたものだったが、その匂いについては誰も特には気にすることはなかった。皆あらためて政孝の鼻の良さに感心したとのことである。

贈り物は「ニッカ」番地

宮城峡蒸溜所の現在の住所は、「宮城県仙台市青葉区ニッカ一番地」という簡潔なものだが、蒸溜所建設以前は、宮城県宮城郡宮城町大字作並字戸崎原上~と大変長いものだった。当時、企業誘致を積極的に進めていたのが高橋進太郎宮城県知事。庄子長吉宮城町長、竹鶴政孝との会談の際、知事が「ニッカの宮城県進出を記念して何かプレゼントしたい」と申し出られたところ、政孝が、「それならば番地名を“ニッカ”に」と答えた。庄子町長は、近隣の住民感情への配慮などを苦労しながらも、1969年6月、条例を改正して約束を果たされた。現在、広瀬川をはさんで工場側が「ニッカ一番地」、国道48号線側の一部が「ニッカ二番地」(※)となっている。

お祝いに「番地」を希望した政孝も、それを実現させた高橋宮城県知事と庄子宮城町長も器の大きな人だったといえるだろう。

(※)「ニッカ二番地」は住宅地図等には表記されていません。

宮城峡蒸溜所のシンボル的存在、ニッカ池

1969年5月10日、ニッカウヰスキー宮城峡蒸溜所が誕生した。
約20万㎡の敷地にキルン棟、発芽棟、仕込工場、貯蔵庫などが林立する。広大な敷地のなかにある、赤いキルン棟と木々を映し出す池。ときに遠くシベリアからオオハクチョウが飛来したこともある池は宮城峡蒸溜所のシンボル的存在だが、工場の設計図に池は存在しなかった。

工場内の道をつくるために砂利を掘ったところに雨水などが溜まり、次第に水かさが増してゆく。やがて、ぽっかりと大きな穴があいたところに新川から水を引くと立派な池が出来上がった。池の住人は錦鯉や新川から拾われてきた川亀、そして余市工場のニッカ沼にいた白鳥のつがい。彼らがのんびりと暮らしている池にある島は岩で出来ており、これも川亀同様新川からやってきたものだ。

ニッカ池に浮かぶ島にまつわるエピソード

この島にはこんなエピソードがある。
工場の建設を請け負った間組は「ニッカウヰスキー宮城峡蒸溜所の誕生を祝って何か贈り物をしたい」と竹鶴政孝に申し出た。
そこで政孝が「では新川の対岸にある、あの岩を池に置きたい。優れた技術を持つ間組なら運ぶことができるだろう」と答えたところ間組の支店長は「お安い御用です。ではあの岩を記念に贈りましょう」と約束したのであった。

さっそく岩を運ぼうとしたのだが、想像していたよりも地中深く入り込んでおり、掘り起こすのは不可能だった。

ある日建設委員長をしていた竹鶴威のところに間組から「折り入って話がある」と連絡があった。何事かと思いきや「政孝社長にお約束していた岩を運ぼうとしたところ地中部分が深くて掘り起こせません。細かくして運ぶために発破をかけても構わないでしょうか」との話であった。 それを伝え聞いた政孝は大笑いして承諾したという。

蒸溜所の建設に携わった間組から蒸溜所誕生のお祝いに贈られたニッカ池にある島。

琥珀色の夢に共感した人々の想いと期待をこめて

岩は慎重に発破がかけられ、池へ運ばれ再び組み上げられた。
頑丈に組むために土が接着剤の代わりに使用され、松が植えられた。やがて風で運ばれてきた植物の種が土に根を張り、宮城峡蒸溜所の中に一風変わった様相を呈した小さな島が誕生したのである。

当時、この岩の移設費用は100万円と伝えられていた。が、実際は何と600万円もかかったという。
「もう時効だから、お話しても構わないでしょう」と、当時間組で働いていた方が実際の金額を明かしてくださったのだが、実に高い贈り物になったのは確かである。

政孝の、ニッカウヰスキーの琥珀色の夢に共感した人々の想いと期待がこめられた岩は、現在も池に静かに佇む。
残った岩は工場に隣接した新川の川原の隅にある「ニッカ宮城峡蒸溜所建設決定の地」記念碑の、やや斜め前の対岸に残っている。その姿はまるで、ウイスキーの仕込み水ともなる清冽な川の流れを見守っているかのようだ。

池に運ばれた岩の残りは、新川の河原にある「宮城峡蒸溜所建設決定の地」記念碑のやや斜め前の対岸にある。