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蒸溜所の産声

第4回

蒸溜所の産声

「本物をつくらないなら私が会社に籍をおいて高禄をはむ意味はない」

本場の製法にこだわり、余市へ

「日本で初めて、本物のウイスキーを作ることができる」
大正九(一九二〇)年秋、確かな手応えを得てスコットランドから帰国した竹鶴政孝を待っていたのは、第一次世界大戦後の「戦後大恐慌」だった。軍需景気とともに飛躍的に売り上げを伸ばした摂津酒造も、業績不振にあえいでいた。
政孝は、「本格モルト・ウイスキー醸造計画書」を何度も書き直し提出するが、結局、重役会議で蒸溜所建設は無理と決まる。
洋酒部門の責任者として高給を得ていた政孝だが、「本格ウイスキーを摂津酒造でつくらないのなら、私が会社に籍をおいて高禄をはむ意味は全くない。
それを承知で社長の恩愛に甘んじて過ごすことはどうしてもできない」(自伝『ウイスキーと私』=日経新聞連載「私の履歴書」に加筆、ニッカウヰスキー発行)と退社を決意。
大正十一年春、阿部喜兵衛社長に会い「しばらく浪人してみたいと思います」と伝えた。
阿部社長は「残念だが…」とポツリと一言漏らすだけだった。
政孝は帝塚山(大阪市)の自宅近くの中学で化学教師をし、妻のリタは英語とピアノを教えながら、“浪人生活”は続いていた。
翌年早春、そんな政孝のもとに思いがけない客が訪れる。
寿屋(現サントリー)の社長、鳥井信治郎だった。
鳥井もまた本格的な国産ウイスキー作りを夢みていた。
鳥井は明治三十二(一八九九)年、大阪市に鳥井商店を開業。
四十年に発表した赤玉ポートワインが大当たりし大正十年には寿屋を設立、次々と事業を拡大していた。
「日々に新たに|サントリー百年史」によると、当時、寿屋でも ウイスキー蒸溜所建設には、反対の声が圧倒的だった。
だが、鳥井には強い信念と情熱があった。

「わしには赤玉ポートワインという米のめしがあるよって、このウイスキーには儲(もう)からんでも金をつぎ込むんや。自分の仕事が大きくなるか小さいままで終わるか、やってみんことにはわかりまへんやろ」と、蒸溜所計画を強行突破する。
鳥井は当初、ウイスキーづくりの権威を英国から招こうと考えていたが、「グラスゴー大学でウイスキー作りを学んだ青年が日本に帰国している。彼を雇ったらどうだ」との返事が来た。 鳥井は摂津酒造で優秀な技師だった政孝を思いだした。
「あの若者に夢を託してみよう」
鳥井は、「酒作りはすべて竹鶴政孝に任せる」「契約は十年間」「年俸は英国から招く技師に用意していたのと同じ四千円」と破格の条件を政孝に提示した。大学卒の月給は、四十円から五十円だった。
政孝は早速、気候がスコットランドに似ている北海道を候補地に提案するが、鳥井は「工場を皆さんに見てもらえないような商品は、これからは大きくなりまへん。大阪から近いところにどうしても建てたいのや」とこだわった。

そこで決まったのが京都盆地と大阪平野の接点にあたる山崎(大阪府三島郡島本町)だ。天王山を背負い桂川、宇治川、木津川の合流点。ウイスキー作りに重要な良質な水が豊富にあった。
必要な設備も一からそろえた。大麦を発芽させるモルト棟や乾燥・蒸溜棟を建設、粉砕機、濾過(ろか)機は英国に、発酵用の巨大な桶(おけ)はアメリカに発注した。ウイスキーの品質を決定づける巨大な銅の釜、ポットスチル(単式蒸溜器)は、政孝自身が設計図を書き、二つの鉄工所に依頼した。職人は、故郷の広島から日本酒の杜氏(とうじ)を呼び集めた。

こうして大正十三年十一月十一日、二百万円もの巨費を投じた日本初のウイスキー蒸溜所「山崎工場」が誕生した。
鳥井と政孝を悩ませたのは酒税の問題だった。当時はできた酒に一石いくらと課税する造石(ぞうこく)税だったが、ウイスキーは長期熟成が必要だ。倉庫で寝かしているうちに蒸発などによる欠減分がでる。政孝は大阪税務監督局に通い続け、出荷のときに課税する「庫出(くらだし)税方式」が採用されることになった。
山崎工場には秋になると大量の大麦や樽(たる)などが運ばれていった。しかし製品は出てこない。地元では「けったいな工場や」とうわさになり、寿屋社内でも投資だけ続くことが再び問題となっていた。
昭和三(一九二八)年秋、さすがの鳥井も「そろそろ丸四年や。どうやろ?」と政孝に声をかけた。
「まだ早い。理想のブレンドを作るには最低五年は必要です」
そう言いたかった政孝だが、会社の事情は理解できた。
翌年四月、日本初の本格ウイスキー「サントリー白札」が発売される。太陽をイメージした赤玉(サン)と鳥井(トリイ)から命名。四円五十銭だった。
しかし、「サントリー白札」は売れなかった。高価なうえ、燻(いぶ)したスコッチ・ウイスキー独特の「スモーク・フレーバー」は「焦げ臭い」と不評だったのだ。
鳥井から、日本人の好みにあった味にするよう求められたが、政孝はあくまで、スコットランドと同じ製法の「本物」にこだわった。
すでに十年の契約期間は過ぎていた。政孝は身を退く決意をする。
昭和九年三月一日付で寿屋を退社した政孝は、まもなく四十歳を迎えようとしてた。
迷っている時間はなかった。
政孝は、東京から汽車と連絡船を乗り継いで三十時間、念願の北海道余市町に工場建設を決める。良質な水に加え、麦芽を乾燥させるためのピート(草炭)が取れ、リンゴの産地でもあった。
「まずはリンゴジュースで食いつなげる」
そう決めた政孝は社名を「大日本果汁株式会社」とし昭和九年、初めて自分の会社を設立した。資金はわずか十万円。山崎工場の二十分の一だった。
=敬称略(田窪桜子)