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産経ニュース

NIKKA WHISKY

「マッサン」と呼ばれた男、竹鶴正孝の夢

本コンテンツは2014年10月に産経ニュースサイト上で、
連載コラムとして紹介されたものです。

世界の5大ウイスキーの一つに数えられるジャパニーズウイスキー。始まりは明治に生まれ、大正、昭和を駆け抜けた、一人の青年の熱い思いだった。「マッサン」と呼ばれた男、ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝(1894―1979)。広島県竹原町(現・竹原市)の造り酒屋に生まれ、日本で初の本格ウイスキーづくりを目指した政孝の情熱は、英・スコットランドで出会った生涯の伴侶・リタの力強い愛と、身近な人たちの温かい応援に支えられて見事に結実した。政孝は何を考え、どう行動したか。生誕から120年、彼が興したニッカウヰスキーの創業から80年のときを越えて、政孝の心のふるさととも言えるスコットランドでの取材を交えながら描いてみたい。

 世界の5大ウイスキーの一つに数えられるジャパニーズウイスキー。始まりは明治に生まれ、大正、昭和を駆け抜けた、一人の青年の熱い思いだった。
 「マッサン」と呼ばれた男、ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝(1894-1979)。広島県竹原町(現・竹原市)の造り酒屋に生まれ、日本で初の本格ウイスキーづくりを目指した政孝の情熱は、英・スコットランドで出会った生涯の伴侶・リタの力強い愛と、身近な人たちの温かい応援に支えられて見事に結実した。
 政孝は何を考え、どう行動したか。生誕から120年、彼が興したニッカウヰスキーの創業から80年のときを越えて、政孝の心のふるさととも言えるスコットランドでの取材を交えながら描いてみたい。 =敬称略
(産経新聞編集委員 関田伸雄)

第一章 ウイスキーづくりへの情熱

ウイスキーづくりへの情熱リタの愛に支えられた

 スコットランドの“首都”であるエディンバラ。朝から小雨が降っていた。大西洋と北海に挟まれた島国であり、湿度が高く、曇り空が何日も続くことが多い、スコットランドらしい空模様だった。英国からの独立を問うた住民投票の直後だったが、独立賛成派の「yes」、反対派の「no」のポスターや独立賛成派の手書きのビラが散見されたくらいで、街はまるでなにごともなかったかのように静かだった。
 旧市街と新市街の狭間、街の中心部に位置するプリンセズ通り公園には、小雨にもかかわらず、老若男女が散歩に訪れていた。それだけ市民に愛されているということだろう。夏のなごりの草花が咲き乱れ、目の前には岩山の上にそびえ立つエディンバラ城の威容が迫っている。
 政孝は、結婚の直前とリタの死後の少なくとも2回、この公園を訪れている。
 結婚前には、リタと城を見上げながらウイスキーづくりへの情熱を語り、英国の酒造会社ギルビー社との技術提携の際に再訪したときには、甥で養子の威(現・ニッカウヰスキー相談役)らに城の観光を勧め、自らは公園に独り残って、もの思いにふけったようだ。
 作家の川又一英は『ヒゲのウヰスキー誕生す』(新潮文庫)で、リタはこの公園で自分に第一次世界大戦で戦死した婚約者がいたことを政孝に初めて打ち明けたと書いている。あえて語った自らの過去。「好意以上のもの」の発露といえる。

スコットランドの“首都”であるエディンバラ。朝から小雨が降っていた。大西洋と北海に挟まれた島国であり、湿度が高く、曇り空が何日も続くことが多い、スコットランドらしい空模様だった。英国からの独立を問うた住民投票の直後だったが、独立賛成派の「yes」、反対派の「no」のポスターや独立賛成派の手書きのビラが散見されたくらいで、街はまるでなにごともなかったかのように静かだった。旧市街と新市街の狭間、街の中心部に位置するプリンセズ通り公園には、小雨にもかかわらず、老若男女が散歩に訪れていた。それだけ市民に愛されているということだろう。夏のなごりの草花が咲き乱れ、目の前には岩山の上にそびえ立つエディンバラ城の威容が迫っている。政孝は、結婚の直前とリタの死後の少なくとも2回、この公園を訪れている。結婚前には、リタと城を見上げながらウイスキーづくりへの情熱を語り、英国の酒造会社ギルビー社との技術提携の際に再訪したときには、甥で養子の威(現・ニッカウヰスキー相談役)らに城の観光を勧め、自らは公園に独り残って、もの思いにふけったようだ。作家の川又一英は『ヒゲのウヰスキー誕生す』(新潮文庫)で、リタはこの公園で自分に第一次世界大戦で戦死した婚約者がいたことを政孝に初めて打ち明けたと書いている。あえて語った自らの過去。「好意以上のもの」の発露といえる。

ロイヤル・スコテッシュ・アカデミー横の広場に掲示された独立賛成派の手書きビラ。当地の住民投票に世界中の注目が集まった

カップルが憩うプリンセズ通り公園から、岩山の上にそびえるエディンバラ城を望む。手前はスコットランド国立美術館

 再訪の際には、城の観光から戻った威たちに、政孝が「じつはな、いま、リタと共に過ごした四十年を遡って生きとるところだ」と述懐したという。説得力のある話だ。
 夜のエディンバラ。週末とあって旧市街のバーには大勢の人が溢れていた。カウンターで思い思いの酒を頼む。ビールもウイスキーも種類は豊富だ。現金を支払って飲み物を受け取ったあとは、そのままカウンターで立ち飲みをしたり、空きを見つけてテーブル席に座ったり、それぞれの時間を過ごす。あちこちで笑い声が起きる。みんな楽しそうだ。
 ウイスキーの話をすると、ビールを飲んでいる人でも、みんなスコッチウイスキーの自慢をする。相手が日本人だとわかると、「ジャパニーズ(ウイスキー)もなかなかだ」とお愛想をいう。
 喧噪を抜け出すと、街は静かに眠っていた。
 ホテルへの帰り道、プリンセズ通り公園のそばを通りかかった。エディンバラ出身の詩人・作家、サー・ウォルター・スコットの銅像が静かに通りを見下ろしている。政孝とリタの物語がよみがえってきた。
 国際結婚が極めて稀だった時代、家族の反対を押し切って、政孝と夢見ることを決意したリタ。その愛に支えられて政孝はジャパニーズウイスキーづくりに人生のすべてを賭けた。いつの日か、自分のつくりあげたウイスキーが聖地ともいえるスコットランドで飲まれることを思い描きながら…。

エディンバラ城近くで観光客にバグパイプ演奏を披露する男性

エディンバラの中心街を静かに見守るサー・ウォルター・スコットの銅像

エディンバラ旧市街のバー。「スコッチウイスキーに勝るとも劣らないウイスキーをつくる」という政孝の夢は現実のものになりつつある

再訪の際には、城の観光から戻った威たちに、政孝が「じつはな、いま、リタと共に過ごした四十年を遡って生きとるところだ」と述懐したという。説得力のある話だ。夜のエディンバラ。週末とあって旧市街のバーには大勢の人が溢れていた。カウンターで思い思いの酒を頼む。ビールもウイスキーも種類は豊富だ。現金を支払って飲み物を受け取ったあとは、そのままカウンターで立ち飲みをしたり、空きを見つけてテーブル席に座ったり、それぞれの時間を過ごす。あちこちで笑い声が起きる。みんな楽しそうだ。ウイスキーの話をすると、ビールを飲んでいる人でも、みんなスコッチウイスキーの自慢をする。相手が日本人だとわかると、「ジャパニーズ(ウイスキー)もなかなかだ」とお愛想をいう。喧噪を抜け出すと、街は静かに眠っていた。ホテルへの帰り道、プリンセズ通り公園のそばを通りかかった。エディンバラ出身の詩人・作家、サー・ウォルター・スコットの銅像が静かに通りを見下ろしている。政孝とリタの物語がよみがえってきた。国際結婚が極めて稀だった時代、家族の反対を押し切って、政孝と夢見ることを決意したリタ。その愛に支えられて政孝はジャパニーズウイスキーづくりに人生のすべてを賭けた。いつの日か、自分のつくりあげたウイスキーが聖地ともいえるスコットランドで飲まれることを思い描きながら…。

スコットランドへ運命を変えた「とびら」

政孝のジャパニーズウイスキーへの情熱の原点は、父である敬次郎の「酒は造る人の心が移るもんじゃ。一度死んだ米をまた生き返らせてつくるんじゃ」という口癖にあったようだ。本家の事情によって、分家でありながら造り酒屋を受け継いだ敬次郎は、職人気質で、政孝に発酵を続ける酒の泡を見せながらこの言葉を繰り返したという。当時の日本で唯一、醸造学科のあった大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)に進学したのは、長兄と次兄が酒造りを嫌ってゴム栽培と炭鉱開発の道に進んだこともあったが、敬次郎の影響が大きかった。政孝自身、著書『ウイスキーと私』(NHK出版)に「今から思うと、酒づくりのきびしさは、いつのまにか父を通して、私の血や肉になっていたようである」と綴っている。ただ、政孝は、卒業後に徴兵検査を受け、1年の志願入隊・除隊を経て家業を継ぐという、造り酒屋出身者のほとんどがたどった道を歩くのは嫌だった。負けず嫌いの性格がそうさせたのか。醸造学科で洋酒づくりに興味を抱いた政孝は、卒業の1カ月ほど前に、当時、アルコール蒸溜業界の雄で、洋酒づくりにも乗り出していた大阪の摂津酒造に飛び込みで就職する。醸造学科の先輩である岩井喜一郎が同社で活躍していたとはいえ、政孝の能力は未知数だ。社長の阿部喜兵衛は「(約9カ月後に控えた)徴兵検査まででもいいから洋酒づくりを学んでみたい」という政孝の青年らしい意気に感じたのだろう。

 政孝のジャパニーズウイスキーへの情熱の原点は、父である敬次郎の「酒は造る人の心が移るもんじゃ。一度死んだ米をまた生き返らせてつくるんじゃ」という口癖にあったようだ。本家の事情によって、分家でありながら造り酒屋を受け継いだ敬次郎は、職人気質で、政孝に発酵を続ける酒の泡を見せながらこの言葉を繰り返したという。
 当時の日本で唯一、醸造学科のあった大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)に進学したのは、長兄と次兄が酒造りを嫌ってゴム栽培と炭鉱開発の道に進んだこともあったが、敬次郎の影響が大きかった。
 政孝自身、著書『ウイスキーと私』(NHK出版)に「今から思うと、酒づくりのきびしさは、いつのまにか父を通して、私の血や肉になっていたようである」と綴っている。
 ただ、政孝は、卒業後に徴兵検査を受け、1年の志願入隊・除隊を経て家業を継ぐという、造り酒屋出身者のほとんどがたどった道を歩くのは嫌だった。
 負けず嫌いの性格がそうさせたのか。醸造学科で洋酒づくりに興味を抱いた政孝は、卒業の1カ月ほど前に、当時、アルコール蒸溜業界の雄で、洋酒づくりにも乗り出していた大阪の摂津酒造に飛び込みで就職する。醸造学科の先輩である岩井喜一郎が同社で活躍していたとはいえ、政孝の能力は未知数だ。社長の阿部喜兵衛は「(約9カ月後に控えた)徴兵検査まででもいいから洋酒づくりを学んでみたい」という政孝の青年らしい意気に感じたのだろう。

とはいえ、当時の洋酒はワインにしても輸入した原酒にアルコールや砂糖を加えて日本人好みの味にしたものであり、ウイスキーに至ってはアルコールにウイスキー風の味と色をつけた完全なイミテーションだった。『ヒゲのウヰスキー誕生す』によると、阿部は自社製品に自信を持ちながらも、岩井に対して「模造はしょせん、模造でしかない。このままでいいのか」と漏らしていたという。当時、日本列島は第一次世界大戦景気の最中にあった。摂津酒造もアルコール蒸溜の本業で大いに潤っていた。経営状態が良好な時期に次の一手を考えるのが経営者としての責任だ。阿部は、軍需物資であるアルコール製造に従事していることを理由に兵役を免れることになった政孝に白羽の矢を立てた。研究熱心だった政孝は入社後まもなく洋酒(酒精含有飲料)部門の主任に抜擢されていた。「スコットランドへ行って、モルトウイスキーづくりを勉強してみよいう気はあらへんか」。阿部の言葉に政孝は驚いたに違いない。

入社1年に満たない新人に会社の将来を賭ける。留学費用は安くはない。経営者としては重い決断だったろう。渋る政孝の両親を説得してくれたのも阿部だった。「私は宿命論者ではないが、人生と運命の関係には二つの型があるのではないかと思う。一つは自分の運命に挑戦して生きていくにしても、ほとんど自分の力で、そのとびらを切り開いていく型と、もう一つは周囲の人の好意や協力で、自分の進む機会が与えられ、とびらの方から、おのずと開いていってくれる型であり、私はどちらかというと後者の方に属しよう。私にとって、そのとびらは実にたくさんあった」(『ウイスキーと私』)。後年になってからの政孝の述懐だ。大正7年7月3日。政孝は24歳。神戸港のメリケン波止場での見送りには、阿部や岩井だけでなく、帰国後に政孝と密接に関わることになる寿屋(現・サントリー)の鳥井信治郞、後に朝日麦酒(現・アサヒビール)社長になる山為硝子の山本為三郎も姿を見せた。政孝の言葉通り、阿部が開いてくれた「とびら」は、政孝の運命を大きく変えることになった。

 とはいえ、当時の洋酒はワインにしても輸入した原酒にアルコールや砂糖を加えて日本人好みの味にしたものであり、ウイスキーに至ってはアルコールにウイスキー風の味と色をつけた完全なイミテーションだった。
 『ヒゲのウヰスキー誕生す』によると、阿部は自社製品に自信を持ちながらも、岩井に対して「模造はしょせん、模造でしかない。このままでいいのか」と漏らしていたという。
 当時、日本列島は第一次世界大戦景気の最中にあった。摂津酒造もアルコール蒸溜の本業で大いに潤っていた。経営状態が良好な時期に次の一手を考えるのが経営者としての責任だ。
 阿部は、軍需物資であるアルコール製造に従事していることを理由に兵役を免れることになった政孝に白羽の矢を立てた。研究熱心だった政孝は入社後まもなく洋酒(酒精含有飲料)部門の主任に抜擢されていた。
 「スコットランドへ行って、モルトウイスキーづくりを勉強してみよいう気はあらへんか」。阿部の言葉に政孝は驚いたに違いない。入社1年に満たない新人に会社の将来を賭ける。留学費用は安くはない。経営者としては重い決断だったろう。渋る政孝の両親を説得してくれたのも阿部だった。
 「私は宿命論者ではないが、人生と運命の関係には二つの型があるのではないかと思う。一つは自分の運命に挑戦して生きていくにしても、ほとんど自分の力で、そのとびらを切り開いていく型と、もう一つは周囲の人の好意や協力で、自分の進む機会が与えられ、とびらの方から、おのずと開いていってくれる型であり、私はどちらかというと後者の方に属しよう。私にとって、そのとびらは実にたくさんあった」(『ウイスキーと私』)。後年になってからの政孝の述懐だ。
 大正7年7月3日。政孝は24歳。神戸港のメリケン波止場での見送りには、阿部や岩井だけでなく、帰国後に政孝と密接に関わることになる寿屋(現・サントリー)の鳥井信治郞、後に朝日麦酒(現・アサヒビール)社長になる山為硝子の山本為三郎も姿を見せた。政孝の言葉通り、阿部が開いてくれた「とびら」は、政孝の運命を大きく変えることになった。

苦闘――投げられても投げられても

 スコットランドの人は人情味が厚く、勤勉な努力家が多いという。とくに地方に住む人々は人見知りをすることもあるが、都会人より親切で木訥な性格とされる。
 米国で英語の勉強を兼ねてワイン醸造所の視察などを行ったあと、大西洋を横断して英国入りした。
 持っているのは大阪高工の卒業証明書だけ。エディンバラ大学にはウイスキーづくりを学べる学科がなかったため、鉄路でグラスゴーに向かった。『国富論』で有名な経済学者のアダム・スミスや蒸気機関を発明したジェームズ・ワットらを輩出したグラスゴー大学に籍を置きつつ、別途、応用化学を学ぶために王立工科大学(現・ストラスクライド大学)の聴講生になった。
 グラスゴー大ではトーマス・スチュワート・パターソン教授の有機化学、王立工科大ではフォーサイス・ジェームズ・ウィルソン教授の応用化学の授業を受講した。
 大学の図書館にはウイスキーに関する書物がたくさん所蔵されていた。政孝はむさぼり読んだ。そうした中、ウィルソン教授の助言で入手したのが、政孝が生涯にわたって教科書としたネトルトン著『ウイスキー並びに酒精製造法』だった。だが、蒸溜所の現場を知らずに本だけでウイスキーづくりを理解することはできなかった。

スコットランドの人は人情味が厚く、勤勉な努力家が多いという。とくに地方に住む人々は人見知りをすることもあるが、都会人より親切で木訥な性格とされる。米国で英語の勉強を兼ねてワイン醸造所の視察などを行ったあと、大西洋を横断して英国入りした。持っているのは大阪高工の卒業証明書だけ。エディンバラ大学にはウイスキーづくりを学べる学科がなかったため、鉄路でグラスゴーに向かった。『国富論』で有名な経済学者のアダム・スミスや蒸気機関を発明したジェームズ・ワットらを輩出したグラスゴー大学に籍を置きつつ、別途、応用化学を学ぶために王立工科大学(現・ストラスクライド大学)の聴講生になった。グラスゴー大ではトーマス・スチュワート・パターソン教授の有機化学、王立工科大ではフォーサイス・ジェームズ・ウィルソン教授の応用化学の授業を受講した。大学の図書館にはウイスキーに関する書物がたくさん所蔵されていた。政孝はむさぼり読んだ。そうした中、ウィルソン教授の助言で入手したのが、政孝が生涯にわたって教科書としたネトルトン著『ウイスキー並びに酒精製造法』だった。だが、蒸溜所の現場を知らずに本だけでウイスキーづくりを理解することはできなかった。

ウイスキーづくりを学んでいた政孝が有機化学を学んだグラスゴー大学

受講許可証のコピー

ハイランドディストラリーにて実習中1919年4月

ウイスキーづくりを学んでいた政孝が1919年に宿泊したグレート・ノーザン・ステーションホテル(現・レアックマレイホテル)の部屋

「わからぬ。何故か」「毎日が苦しい。しかし頑張り耐えねばならぬ」とネトルトンの本に書き込んだのもこのころだ。そうこうするうちに5カ月ばかりが過ぎ、勉強が進展しなかったこともあって政孝はホームシックに陥ったようだ。着いたばかりのころは気に入っていた「キッパーズ」と呼ばれるニシンの燻製も、もてあますようになったという。いつまでもこうしているわけには…。一念発起した政孝はネトルトンに直接、指導を請うことを思い立った。グラスゴーから北に約300キロ、北海に通じるマレイ湾沿いのエルギンに向かった。鉄路で計9時間もかかる遠い旅だ。翌日、事前の約束もなしにネトルトンの自宅を訪れた政孝は、多くの蒸溜所の税務アドバイザーを務めた英国人の現実主義に直面することになる。政孝自身は自著『ウイスキーと私』にネトルトンを訪問したことすら書いていないが、『ヒゲのウヰスキー誕生す』によると、ネトルトンは蒸溜所で実習するための助言と個人的な指導を求めようとした政孝の言葉を途中でさえぎり、一カ月の生活費に匹敵する高額の謝礼を提示し、減額要請にも応じようとしなかったという。見たこともない東洋人にスコッチウイスキーづくりを伝授するのが嫌だったのかもしれない。つてを失った政孝だったが、モルトウイスキーづくりの聖地スペイサイドはすぐそばだった。悔しさをばねに自ら道を切り開こうと考えた。投げられても投げられても相手に立ち向かっていく、旧制中学から大阪高工まで柔道で培われた精神力は、異国の地でも健在だったに違いない。

 「わからぬ。何故か」「毎日が苦しい。しかし頑張り耐えねばならぬ」とネトルトンの本に書き込んだのもこのころだ。そうこうするうちに5カ月ばかりが過ぎ、勉強が進展しなかったこともあって政孝はホームシックに陥ったようだ。着いたばかりのころは気に入っていた「キッパーズ」と呼ばれるニシンの燻製も、もてあますようになったという。
 いつまでもこうしているわけには…。一念発起した政孝はネトルトンに直接、指導を請うことを思い立った。
 グラスゴーから北に約300キロ、北海に通じるマレイ湾沿いのエルギンに向かった。鉄路で計9時間もかかる遠い旅だ。
 翌日、事前の約束もなしにネトルトンの自宅を訪れた政孝は、多くの蒸溜所の税務アドバイザーを務めた英国人の現実主義に直面することになる。
 政孝自身は自著『ウイスキーと私』にネトルトンを訪問したことすら書いていないが、『ヒゲのウヰスキー誕生す』によると、ネトルトンは蒸溜所で実習するための助言と個人的な指導を求めようとした政孝の言葉を途中でさえぎり、一カ月の生活費に匹敵する高額の謝礼を提示し、減額要請にも応じようとしなかったという。見たこともない東洋人にスコッチウイスキーづくりを伝授するのが嫌だったのかもしれない。
 つてを失った政孝だったが、モルトウイスキーづくりの聖地スペイサイドはすぐそばだった。悔しさをばねに自ら道を切り開こうと考えた。投げられても投げられても相手に立ち向かっていく、旧制中学から大阪高工まで柔道で培われた精神力は、異国の地でも健在だったに違いない。
(第1章終了)