余市蒸留所写真 余市蒸留所写真

お酒の商品情報が含まれますので、
20歳未満の方は、ご覧いただけません。

お客様は、20歳以上ですか?

  • はい
    サイトを閲覧する
  • はい
    サイトを閲覧する
  • いいえ
    トップページへ
  • いいえ
    トップページへ

※20歳未満の方と端末を共有している場合は、チェックを外してください。

第7話

第7話

品質第一主義の政孝親父のせめてもの抵抗、意地とこだわり

1950年8月、どんどん拡大する三級市場に向け、大日本果汁株式会社(現在のニッカウヰスキー)初の三級ウイスキー「スペシャルブレンドウイスキー」が発売された。それまで政孝親父は「わしゃ、品質は落とさん」と税務署長に啖呵を切ったり、資金調達のために銀行へ行き、支店長席の前に居座ると夕方になるまで大声でやりあったりしていた。支店長に「あんたが勝手に(ウイスキーを)仕込んだんだから融資はしない」と言われると「貸さないなら東京へ行って頭取と話し合いをする」と言い返す。しかしこのままでは経営が立ち行かなくなる、ということで泣く泣く三級ウイスキーづくりに踏み切ったのであった。

品質第一主義の政孝親父のせめてもの抵抗、意地とこだわりで、税法で許されているモルト混和率(5パーセント未満)ぎりぎりまでモルトを入れ、他社よりも高い500㎖、350円であった。味は軽く、飲みやすい。色のばらつきをなくすためにカラメルを添加した。このカラメルは自社製で、工場の一角(現在のガラス張りのサンルームのあたり)に大きな鍋を置いて白砂糖を時間をかけて煮て作っていたものだ。工場には甘く良い香りがたちこめたが、作っているほうは煙で目がチカチカしてたまったものではない。焦がしてはいけないので大変な作業だ。合成の色素を使えば退色も遅く、手間もかからない。一方工場で作ったカラメルは退色が早く、光線に当たるとウイスキーの色が薄くなってしまうという難点があった。しかし合成色素など使おうとは思わなかった。私は研究室で様々なウイスキーの分析を行っていたが、合成色素を使っているウイスキーは白い毛糸が茶色く染まった。それでも当時は、それがウイスキーとして販売されていたのである。

1952年、社名が大日本果汁株式会社からニッカウヰスキー株式会社に変更になり、東京、大阪に支店、札幌、仙台、名古屋、福岡に出張所を設立。東京都麻布に建設中だった東京工場が竣工した。日本経済は好調で、1956年には戦後の日本始まって以来の好景気を「神武景気」などと呼んでいた。この年の5月、政孝親父は洋酒業界における多大な功績により黄綬褒章を受けた。これを記念して有志から贈られた胸像が余市工場にあり、像は旧事務所(当時は社長室)のほうを向いて建てられている。いつだったか私が「原料やウイスキーを積んだ車が通りやすいように社長室を移転させたらどうか」と政孝親父に言うと「わしを邪魔者扱いするのか!」と半分冗談めかして叱られたことがあった。創業当時の事務所を社長室にしたものだったので、やはり想い出があったのであろう。今は町の文化財になっている。

6月には特級ウイスキー「ブラックニッカ」が、そして11月には二級ウイスキー「丸びんニッキー」が発売された。当時の「ブラックニッカ」にはW・P・ローリーのイラストはなく、ニッカのラベルマークとロゴが配されたシンプルなものであった。ラベルマークは一見イギリス貴族のエンブレムのようだが、よく見ると左右一頭ずつ中央を向いているのは魔よけの印でもある狛犬、中央の兜は山中鹿之助(*)が使用した兜をあしらったもので武芸を意味しており、 NIKKAの文字周辺の元禄模様は文化を表している。これは政孝親父がスコットランドに留学したとき、王室に献上するウイスキーのエンブレムにライオンとユニコーンが描かれたのを見て、そこからヒントを得てデザインを考えたものであった。

世の中は戦後の混乱期が嘘のように明るい活気に満ちていた。テレビ放送が始まったのもこの頃。「丸びんニッキー」の、ぬいぐるみの熊をモチーフにした白黒のテレビCMが放送され、売り上げはまさにうなぎのぼり。日本にウイスキーブームが到来したのである。
*出雲国尼子氏の一族で、尼子経久の叔父・尼子幸久の代に山中氏を名乗る。永禄6年の毛利氏の出雲侵攻を迎え撃ち世に名を馳せた。