余市蒸留所写真 余市蒸留所写真

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「ニッカ」始動

第5回

「ニッカ」始動

「みな、積荷に向かって思わず敬礼していました」満を持しての初出荷

社員一丸、経営難を乗り越えて

昭和九(一九三四)年七月二日、竹鶴政孝は北海道余市町に「大日本果汁株式会社」を設立した。
出資者は政孝と、加賀商店(後の加賀証券)創業者の加賀正太郎、政孝が住んでいた帝塚山(大阪市)の大地主の芝川又四郎、留学中に知り合った柳沢保恵伯爵(日本統計学の祖)の四人。政孝は専務として会社の運営を任される。

余市にはウイスキー作りに必要なものがすべてあった。寒冷地で適度に湿度のある気候風土、良質な水、豊富なピート(草炭)層。さらに北海道は大麦の産地で樽(たる)材になる木も潤沢だった。蒸溜に必要な石炭もある。
「霧がたちこめる朝なども、懐かしいスコットランドにそっくりだ」と、政孝は迷うことなく余市に決めた。
しかし、政孝は最初からウイスキーを作るつもりはなかった。それゆえに「大日本果汁」という社名にしたのだ。
自伝「ウイスキーと私」(日経新聞連載「私の履歴書」に加筆、ニッカウヰスキー発行)には、「ウイスキーを作る仕事は、何年か先を目標にする気長な事業である。熟成するまでに、事業が持ちこたえられるかどうかに、成否がかかっていた。まずつくればすぐ売れるジュースを販売しながら、ウイスキーを育てることにした」と書いている。
「昔は二交代制で二十四時間働いていました。それでも、絞っても絞っても、工場中がリンゴの山でした」
九年に入社した第一期社員、小山内祐三は話す。秋の収穫シーズンから絞り始め、雪が積もる季節になってもリンゴは減らない。雪の下からかき出しては、絞った。 「台風が来るなど天候が悪く、リンゴがたくさん落ちた。ジュース用なら傷があっても不ぞろいでも引きとってもらえると、工場の前にリンゴを積んだ馬がずらりと並んでね。竹鶴さんはすべて買いとってました」

昭和二十年代、余市では日本酒や焼酎ではなくウイスキーが配給品だった。
「最初はこんな強い酒は飲めないといってたのですが、飲み慣れれば良さが分かる。余市はね、日本で真っ先にウイスキーになじんだ町です。ハイカラな工場で、ハイカラなものを作って、町の果樹農家にも貢献している。専務の奥さんは外国人のきれいな人でしょ。ここで働いているのはそりゃ誇りでした」
小山内は懐かしそうに目を細めた。
十年九月、政孝はようやく妻、リタを鎌倉から呼び寄せる。
余市駅に、社員全員が並んで迎えに行った。汽車から降りるリタに、さっと手を差し伸べる政孝の姿に、社員から嘆声がもれた。
二人は工場の敷地内に住み、朝は政孝が自ら始業ベルを鳴らした。工場内の衛生管理や製品にはうるさい経営者だったが、社員への気配りは忘れなかった。
昭和十二年に入社した渡部政治は瓶詰めの雑用係から始め、蒸溜の担当になる。
「聞き上手な人でした。ポットスチル(単式蒸溜器)を石炭で熱して蒸溜するのですが、石炭が片寄らないように、まんべんなくシャベルでぱっとくべるのは難しい。しばらくすると『君たちはぼくらより上だな』と声をかけてくださったり、厳しいけれど、若い私たちには優しかった」
社員一丸となって新事業へと意欲を燃やしていた大日本果汁だが、食いつなぐはずのリンゴジュースが売れなかった。
ジュースでも政孝は「本物」にこだわったからだ。政孝が作ったのは、一本にリンゴ五個分を使った一〇〇%果汁で三十銭した。ラムネが六銭の時代である。人工甘味料の甘さに慣れた人たちには、リンゴ本来の持つ酸味も「すっぱい」と感じられた。
会社の赤字はふくらむ一方だった。十二年にはリンゴやぶどうのゼリーなども作り始める。
渡部はいう。 「つぶれそうな工場によくいるなあと友人にも言われましたよ。でも、働けるだけでもありがたいし、不安はなかった」
「良いものをつくれば必ず売れる」と、政孝は信念をもって社員に説いたからだ。渡部は戦後、倉庫に当時のゼリーが残っているのを見つけ、食べてみたことがある。
「何も変わってなくて、普通に食べられた。丁寧に作った本物だからですよ。サッカリンを使ったりは絶対しない。私たちはちゃんと良心的なものをつくっていたのがわかってうれしかった」
ウイスキーを蒸溜するためのポットスチルは十年冬、ようやく一器が届く。
「これさえあれば、リンゴ・ワインやリンゴ・ブランデーを作ることができる」
政孝は売れ残ったジュースを酒にすることを考えていた。
社員たちは、今度は返品されたジュースの中身を釜に空ける作業にも追われた。
設立二年目ですでに赤字は莫大(ばくだい)なものになっていた。政孝はこの頃のことを多くは語っていない。
政孝の伝記「琥珀(こはく)色の夢を見る」(松尾秀助著)によると、芝川が「一、二年で事業を投げ出すものではない。 加賀家が協力する限り、私は竹鶴の技術を信じてどこまでももり立てる覚悟である」と主張し、会社は存続した。
昭和十一年夏、政孝はウイスキーの蒸溜を始める。経営難を心配していた出資者たちも、「竹鶴が、とうとう本音を始めよった」と、黙って見守ってくれた。
そうして十五年十月、第一号ウイスキーが出荷された。 初めて自分の手だけで生み出したウイスキーを政孝は、「大日本果汁」を略して「ニッカ(日果)ウヰスキー」と命名した。

語呂もいいし、ネオンの場合もスペースが少なくてもすむ。一定スペースの場合も大きく書けるという利点がある」とカタカナ三文字にしたのだ。
初出荷の日、社員全員が門に整列し、馬車に積まれたウイスキーを見送った。
「みな、積荷に向かって思わず敬礼していました」
小山内はその時の情景をはっきりと覚えている。
前年、第二次世界大戦が始まり、余市蒸溜所は海軍の監督工場に指定されていた。
=敬称略(田窪桜子)