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第50話

第50話

風に揺れる柳を見かけると、様々なことが懐かしく思い出される

私がニッカウヰスキー(当時は大日本果汁株式会社)に入社した翌年の昭和25年、東京に出張したことがあった。当時、政孝親父は余市よりも東京にいることが次第に多くなっていたが、かねてより「(役員やトップ同士は)やむを得ない時以外は同じ飛行機に乗るな」と言っていた。万が一の時の損害を考えていたからであった。

戦争で焦土と化した東京の面影はなく、街は活気に溢れていた。その様子に「ああ、何と日本人は逞しいのだろう」と感心したものである。この年の8月、『スペシャルブレンドウイスキー』(三級)を発売。それまで最高級の「一級」ものしか造っていなかったが、どんどん拡大していく三級市場に向けて初めて発売した三級ウイスキーである。それでも規定の上限である5%まで原酒を入れ、合成色素やエッセンスを一切使用することはなかった。

同年、雑酒(清酒、合成清酒、焼酎、みりん、ビール、果実酒類、ウイスキー類、スピリッツ類及びリキュール類以外の酒類)の公定価格が撤廃され、他の酒類に先駆けて、自由価格・自由競争時代に入った。この頃からスタンドバーがあちこちで見られるようになってきた。ウイスキーの消費も右肩上がりで、昭和27年には東京麻布に建設中だった東京工場が竣工したのである。

私は、より多くウイスキーを売るために銀座の飲食店をまわった。政孝親父と一緒にまわる事もあったが、回数は少なかったように思う。私は出来る限りたくさんのバーや料理屋に顔を出すようにしていたが、政孝親父は自分が気に入った店は頻繁に出入りしたものの、気に入らないところへはほとんど顔を出さなかったようだ。

銀座といえば“銀座の柳”は歌で一躍有名になった。「昔恋しい銀座の柳仇な年増を誰が知ろ・・・」|懐かしい『東京行進曲』の一節である。この歌は昭和4年にヒットした曲で、「昔恋しい銀座の柳」とあるから、この時は銀座に柳がなかったのである。作詞は西条八十氏であるが、同じ八十氏の作詞で、昭和7年に出た『銀座の柳』という歌では「植えてうれしい銀座の柳江戸の名残のうすみどり・・・」とある。この歌は三番まであって全部柳が出てくる。八十氏は銀座に柳が復活したことがよほど嬉しかったのであろう。

昭和9年の『東京音頭』では「花は上野よ柳は銀座・・・」、昭和10年の『大江戸出世小唄』では「土手の柳は風まかせ好きなあのこは口まかせ・・・」、昭和11年の『東京ラプソディー』では「花咲き花散る宵も銀座の柳の下で・・・」、そして昭和22年の『夢淡き東京』では「柳青める日つばめが銀座に飛ぶ日・・・」などなど、いずれも銀座の象徴として柳が歌詞の中に出てくる。

また、柳は昔から風情ある表現に用いられてきた。“柳眉”“柳腰”はいずれも女性の美しい様を表わし、“花柳”といえば華やかで美しいことの喩えから、芸者町などを指す言葉であるが、妓楼の街路樹には桃の花と柳を植えていたことから、そう呼ばれるようになった。

川柳という短詩も、そうした艶やかな妓楼の優雅な遊びから発祥してついた名称かと思ったら、そうではなく、江戸中期、浅草新堀端の名主町役人、柄井川柳(通称は八右衛門。川柳は号)という人物が代表的作家であったことから川柳の名称が生まれたようである。川柳という号や、「柳の下にいつもどじょうはいない」という諺が示すとおり、川と柳は密接な繋がりがあるようだ。

水面は姿を消したが、銀座の柳についての思慕は深いものがある。柳並木の復活も徐々に進みつつある。現在、柳が植えられている通りは一丁目の柳通り、八丁目の御門通りと、銀座の両端にあり、縦の外堀通りに段々と増えているが、いずれ全て柳にする運動が続けられているようだ。

時代と共に銀座のバーや料理屋のボトル棚に並ぶニッカのウイスキーは、『スペシャルブレンドウイスキー』、『丸びんウイスキー』、やがて『ハイニッカ』、『スーパーニッカ』、そして最近では『竹鶴』と移り変わってきた。風に揺れる柳を見かけると、様々なことが懐かしく思い出されるが、ウイスキーの味もまた、様々な思い出を呼び覚ましてくれるものではないだろうか。